アリス・M. ハンスン
音楽之友社
発売日:1988-02

ウィーンと言えば音楽の都であり、モーツァルトやハイドン、ベートーベン、シューベルトが活躍したところ。彼らが生活していた1830年前後、ウィーンが最も華やかでカオスだった時代について考証された本。
なぜ19世紀のウィーンであれほど音楽がもてはやされたのか、音楽家たちは実際にどんな環境で、どんな懐具合で暮らしていたのか、権力との関係はどうだったのか、成功と失敗を分ける分水嶺はどこにあったのか、などを知りたい人にお勧め。膨大で具体的な資料とともにわかりやすく解説されている。(例:一回の公開音楽会を開くためには、どのくらい経費が必要か、当時の曲目・作曲家別演奏回数など)


1830というのは、ナポレオンがウィーンに侵攻してきた年であり、その前後で社会の趨勢がすっかり変わってしまった。それまで貴族が中心になってプライベートな演奏会(とはいえ、規模は大きい)を開いたり、派手なサロン活動を行っていたのが、侵攻を境に力と財力を失い、代わりに中産階級が台頭してくるのだ。彼らは自力で演奏会を開けないかわりに、音楽を聴いたりオペラや劇を楽しむために劇場に足を運ぶ。これが現在まで続く音楽鑑賞スタイルの始まり。
それと同時に、作曲家たちは貴族好みの曲ではなく「聴衆」を熱狂させる曲を生産しなくてはいけなくなった。これに成功したのがロッシーニとパガニーニ、シュトラウス親子であり、聴衆に迎合できず失敗に終わったのがベートーベンやシューベルトだった。ちなみに1830以降のウィーンでは、ハイドンやモーツァルトは過去の遺物として扱われていたという。

しかし何より当時のウィーンを特徴付けたのは、検閲制度ではなかろうか。オーストリアには秘密警察があり、某都条例など可愛らしく思えるほど、事細かに容赦なく検閲を行った。文学・絵画・劇・オペラ・音楽などすべての分野で少しでも反体制的な発言、宗教と関係のある、あるいは関連性を想起させる表現、上流階級を貶めるような描写、そういったものはすべてカットされるか、カットが不可能なら出版・上演は差し止めとなった。

オーストリアの検閲の幅は広く、政治的、道徳的問題だけでなく、宗教上の論議までにも及んでいた。当然のことながら、書籍、劇作品、オペラ台本、詩、新聞は検閲当局で詳しく読まれ、監修された。…印刷された献辞、エッチング、リトグラフ、肖像画、あらゆる種類のスケッチ、地図、図解、王侯の肖像が印刷されたトランプ、家紋、標題、墓石の碑、メダル、表彰状などを検査した。音楽も、その歌詞、表題、メロディ、献辞、さらにその挿絵すら検閲の目から逃れられなかった。 (P57より)

例えば、ベートーベンの第九の初演が不評だったのは、検閲に引っかかって押し問答をしているうちに、演奏会シーズンを逃してしまったためもある。(もちろんそれだけでなく、第九のテーマと当時の退廃的なウィーンの空気が合わなかった、というのが最大の理由だとは思うが)。
厳しい検閲制度の中で、刺激的な文学作品が生まれるはずもなく、結果として比較的規制の緩い音楽に人々は傾倒した(それでもオペラなどは政治的問題や批判精神とは無縁な、当たり障りのない楽しいだけの劇がほとんどだった)。 音楽愛好家が大量に生まれ、中流以上の過程では音楽の素養は必要不可欠なものとなった。ただし、これが本当の意味での芸術活動につながるわけではない。あくまでもファッションとして音楽を取り込んでいるだけ。
そしてたまった鬱憤は舞踏会で発散する。ウィーンの人々は舞踏会が大好きで、開催される頻度が半端無い。舞踏会はカーニバルの時期限定のイベントだけども、シーズン中は毎晩のようにどこかのホールや貴族の館で開催されたようで、資料によれば、舞踏会のワルツは相当激しい動きで、時には死者が出るほどだったらしい。

ウィーンの人々は享楽的で革命など政治的な話には無関心、という印象があるけれども、それは革命を恐れた当局ががんじがらめにコントロールした結果だ。近隣の国では革命へと流れたエネルギーが、オーストリアのウィーンでは音楽やワルツを始めとする享楽的な娯楽に費やされていたのだ。音楽を通して人間の真理を究めようとしたベートーベンやシューベルト、さらにはハイドンやモーツァルトが正当な評価を受けるのはずっと後の時代になる。

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