遠野物語や、与那国島の伝承を例に取りながら、人間と自然の関係について考察した本。
自然=他界であり、人間の世界=現世だとすると、文明の発展は、他界と現世の境界線をいかに押し広げるかという戦いであり、自然が畏れを失ってしまった現代においても、個人的なレベルで他界は存在し続けるという話。

そして境界の行き来にまつわるさまざまなエピソードは、各地に民話や昔話として残り、物語を生む母体となっている。

他界と現世を隔てる境界線はいろいろ。川であったり、山麓であったり、海であったり、時には部屋と外を隔てるドア一枚でさえ立派な境界になる。

女性、老人、不具者、狂人、病人など、社会的に弱い立場にある人間は自然に近く、境界越えをしやすいが、逆に社会の枠組みの中で生きてゆかなくてはならない、あるいは枠組みを支えてゆかなくてはならない男性は、境界を越えるのが不得手なのだという。

面白いのは立松氏が「女装バー」へ取材に行き、実際に女装体験をするところである。女性に変身するという作業は境界越えそのもので、そのことによって、男性としての人格と、女性化した身体が融合できる、という解説がついていた。ならば、女性の男装化はどうなんだろうと、ちょっと考えて、そういえば最近は一人称が「ぼく」とか「俺」という女子が増えつつあることを思い出した。

閑話休題。以下、とても興味をそそられる部分があったので引用。

自然がどんどん消費されて、満たされない心の欲求がディズニーランドの中に流れ込んでゆく。ディズニーランドは自然を模倣しているといいながら、実際は完璧な人工空間です。
もし外側の他界としての自然が消えてしまって――他界が消滅することは恐ろしいことなのですが――こちら側の現世しかなくなったとします。人間の文明しかなくなったと仮定します。そうすると、ディズニーランドは光り輝き、あれが自然そのものになってくるのです。ディズニーランドの疑似自然がやがて自然になってくる。 そしてあれを自然と思わない感受性、あれを楽しく思わない感受性はこの世で生きられなくなってくるというような、それはひとつの実験である気さえします。

この著作が出版されたのは1987年。それから20年以上経た現在、ディズニーランドだけではなく、各地に展開するテーマパークや巨大ショッピングモールさえも、疑似自然物の仲間になっているように思う。そんな中で育った人々がどんな感受性を持つようになるのか、その辺にも興味がわく。

また、引きこもる人たちは強力な境界線を作らねばならない切実な理由があるのだろうなあと想像したり、ニートと呼ばれる人たちは他界へ踏み出す最初の一歩がうまくいかずにとまどっているのだろうかと想像したり、「境界線」という概念は、物語を生み出す契機を提供するばかりでなく、世の中の出来事を捉える上で便利な概念だと思う。

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