いきなりだけど、ちょっと長めの引用から始めてみよう。

「現実」というもののことを、ぼくたちは、ほんとうは知らない。なぜかというと、それを、見てはいないからだ。

「現実」というものは、みんなが見ているといい、そして、確かにそれは存在しているともいっているので、自分も、なんだか存在しているような気になっているだけなのだ。

しかし、そこで、なにかが起こる。

それが、なになのか、ぼくたちは、これからゆつくり考えてゆくだろう。

とにかく、なにかが起こる。

なにかが起こる、とどうなる(なんだか、さっきも書いたけど)。

「現実」の風景が、「現実」の風景のようには見えなくなってくる。

でも、そこになにかがあるのなら、やっぱり、なにかがあるのだろう。

それは、現実の風景だ。「現実」から「  」が抜けた風景が、そこには、ひろがっている。

そこが、正しい「始まり」なのだ。

ケストナーさんとザムザさんの小説の「始まり」を読んでいると、ぼくは、そんなことを感じる。

「  」がはずれた世界が、目の前にあること、それを告げ知らせるために、小説というものは、あるのかもしれない。

「  」をはずせ、というために、あるいは、どうすれば「  」をはずせるかを教えてくれるために、小説というものは、あるのかもしれない。

そして、そのためには、なによりも、正確に観察することが大切であることを、それらの、正しい「始まり」をもつ小説たちは、教えてくれるのである。

(注:「ケストナーさんの小説」とは「エーミールと探偵たち」、「ザムザさんの小説」とはカフカの「変身」のこと)

これだけ挙げてしまったらあとはもう何も書かなくていいや、というぐらい物書きの核心に触れる部分だけども、この本の恐ろしいところは、ほぼすべてが、こんな感じでどれもが重要な文章に見えてくる(実際に大切なのだけど)ところだ。実にエキサイティングな評論だった。

近代から現代にいたるまで、さまざまな日本の小説を取り上げながら、「小説とはなんだろう?」「小説とは何をどうやって表現すべきものか」という大きな問いの答えを探し求めてゆく。言葉の薄っぺらさ、言葉の限界をよく知っている高橋さんの文章は、時に脱線気味だったり軽はずみに見えたりするけれど、その実、小説に対する態度は実に真摯で、真摯だからこそあちこち寄り道する。

この中で立てられている主な問いは、「小説の体裁ってなに」「言葉は〈紋切り型〉から脱出できるのか」「詩の形っていったいどんな形なんだろう」「〈現実〉を本当に見るためにはどうすればいいのか」「〈残念〉な小説はどうやって作られるのか」などなど。

これらは著者である高橋さんが実際に書いた言葉ではない。管理人が勝手に読み取って勝手に翻案したものだ。というのも、高橋さんの文章は前述したように、すべてが大事なところだらけで、ポイントを取り出そうとするなら、それこそ「全文引用」するしかないというシロモノなのだから。そしてこの作業は、現実世界の一部を無理にでも切り取って小説の素材にし、組み立てる作業と似ているなあと思う。

もうひとつ重要なのは、立てた問いに対して考察過程は書かれるけども、明確な結論はほとんど出ていないということだ。読者は途中からガイドを見失い、膨大な言葉のジャングルの中を自力で探検しなくてはいけなくなる。

高橋さんは、簡単にはポイントを切り取らせてくれないし、お手軽な結論もない、カオスで示唆に満ちた評論を書いてしまった。だから面白い。

さよなら、ニッポン
高橋 源一郎
4163736905

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