闇の考古学―画家エトガー・エンデを語る
闇の考古学―画家エトガー・エンデを語る

ファンタジー作家として有名なミヒャエル・エンデが、画家である父・エドガー・エンデについて語る本。インタビュアーとの対話形式。

親と子、それぞれ表現手段は違えど、根幹は同じ。
幻想的で、オディロン・ルドンを彷彿とさせるエドガーの作風はどの流派にも属さない独特なもの。絵のイメージは暗く深い場所から拾ってくるのだという。具体的には、紙と鉛筆を手に、真っ暗な自室に何日もこもり、心に浮かぶイメージを次々に書き留めてゆくのだという。
そして息子のミヒャエルは父の絵に触発されて物語を書いたりする。彼は父の絵を見ながらあれこれ夢想するのが好きだったという。

ミヒャエルの代表作である「モモ」には、それはそれは不可思議で美しいシーンがある。モモがマイスター・ホラの屋敷で時間の神秘を知り、宇宙の音楽と出会うシーンだ。いったい作者はどうやってこのシーンを思いついたのが長年不思議だったのだが、この長いインタビューでようやくその出処がわかった。彼は子どもの頃から父の絵を見ながら、この世の不思議について心の深いところで夢想し続けていたに違いない。そのひとつがあのシーンなのだ、きっと。

しかし、エンデ親子の作品論や芸術観は大いに歓迎する一方で、正直なところかなり難解だった。わかる人には言葉をつくさなくてもわかるが、わからない人にはどれだけ言葉を積み上げて説明してもわからないだろう、という類のもの。

例えばこんな一節がある。
芸術家には2つのタイプがあるとし、ひとつは、「自分というものを表現したいという衝動とか欲求を感じて」取り組むタイプ。これは誰にでもわかりやすいだろう。そしてもうひとつのタイプは遊びが動機となっているというのだが、ミヒャエルはこう語っている。「もっとも高い意味での遊びが、もっと重要になってきます。もともとこのタイプは遊ぶ子どものように芸術に取り組むわけですが、だからといって、まじめさに欠けるわけではありません」「遊びの場合、自分というものを表現することは問題ではありません。問題はむしろ、自分というものを忘れて、まったく別なもののなかにはいりこむことだ、とすらいえるでしょう」。遊ぶタイプの芸術家とては、モーツァルトとシェイクスピアの名が挙げられている。(ちなみにベートーヴェンは「自分を表現したい人」の例で使われている)
この両者が存在することは、私には非常にピンと来るのだが、インタビュアーは「遊びで芸術」の意味が今ひとつ理解できないようで、何度か言葉を変えて質問し、詳しい説明をもとめているが、結局最後までわからなかったようである。

他にも「芸術は自分で説明してはならない」「(芸術において)必要なのは、なにかを提示することです。像や絵はなにも説明すぺきではなく、なにかであるべきなのです」など、刺激的かつ「そうそう」と頷けるような論が展開されてゆくが、それらが一般受けするかといえば、難しいだろうなぁと思わざるを得ない。特に過剰なほどにわかりやすさや解説を求める今の日本では。

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