バイク、タバコ、不良少年たち、登校拒否、そして世界拒否。デジャヴ感ありありの設定・アイテムがずらりとならぶ。特にバイクで疾走するシーンで始まる冒頭には、正直言って辟易した。「この手のハナシ、もういっぱいあるじゃない?」と。
ところが途中まで読み進めて、ベトナム戦争時代の話なのに、代わりに「湾岸戦争」とか入れても違和感がほとんどないことに気がついた。湾岸戦争どころか、ほんの数年前(震災以前)の時代設定でもいけるぐらい主人公の悩みは古びてないし、若い子がぶつかる壁としての社会は本質的に変わってない。
最初に出版された年が1977年であったことを思うと、たぶん、デジャヴ感は逆なのだ。先にこの物語があって、後を追うように似た設定の物語やドラマが溢れてきたのだろう。あくまで私見だけど。

舞台のモデルは、山口県岩国。米軍基地のある町。そこで生まれ育った少女奈々は中学三年になって「社会」とか「現実」という言葉で表される見えない壁にぶつかるようになる。あるとき、それは学校であったり、両親であったり、クラスメートであったり、行きずりで出会ったバイク乗りの少年たち、あるいは米軍相手のスナックで働く少女だったりする。奈々にとって、彼らはみな、嘘つきで空っぽで薄汚い。
出会う何もかもが気に入らず、もがき苦しむ奈々の前に、ある日ふうっと突破口が開く。それは「レイ」という名の少女の姿をしていた。レイは奈々より一歳しか上でないが、自分のやりたいことに対して非常に真っ直ぐで、壁などとっくに突き抜けていた。自分がやりたいと思っていること=絵を描くために高校を中退し、缶詰工場で働き、音大に行かせたいと願っていた育ての親との大げんかも辞さない。中途半端に夜の街をうろついては、鬱々とため息をついて戻ってくるだけの奈々にとって、レイは眩しい存在であり、ようやく見つけた出口だった。
自分の芯が少しずつ確立してきて、前向きな生き方を始める奈々。父親に正々堂々と自分の正直な気持ちを告げた。学校の教師にも屈しない。そして、以前は暇つぶしで書いていた絵を本気で書き始めた。レイといっしょに近所の喫茶店で個展を開くために。
そんな彼女の前に、やはり「現実」は頑として立ちはだかる。「軍隊」や「警官」という権力の仮面をかぶって。それはまだ若い奈々にとって、非常に恐ろしいことではあるが、もう屈することも逃げることもしなかった。

「基地」や「反戦喫茶」、「デモ」、「機動隊」という言葉が出てきて、これらに対し「そういう時代もあったよなぁ」と郷愁を感じることもできる。でも、もう少し深く読みこめば、それらは「暴力」と「自立」が具体的な形をとったもの、と受け取ることもできる。
奈々にとって米軍基地が持つおどろおどろしさと、機動隊が放つ威嚇の空気は同じように恐ろしく、できれば逃げ出したい何かである。アメリカ人であろうが日本人であろうがそんなことは関係なく、彼らは圧倒的な力を持ち、いったんその力が奈々という個人に注がれたなら、彼女は一瞬にして消されてしまうだろう。奈々だけではなく、誰もがそういう攻撃対象になりうるのだ。でも、普通の人たちはあえて気づかないようにしている。
そういう暴力的な存在に対し、理性的に「ノー」と告げること。それをしたのは反戦喫茶に集い、アメリカ軍基地があることに対してデモを行う人々。彼らは、社会の問題に少しだけ敏感で目をそらさないだけで、(少なくとも物語の中では)暴力を使わず基地見学の日にプラカードを掲げてデモをしたり、見学者にビラを配ったすることで自分たちの主張を広める。ふだんは歌や踊りを楽しむ気さくな人々であるが、奈々に「かっこいい」と思わせる何かを持っている。その「何か」とは、自分をしっかり持っていること。自分が何者であるか、何をしたいのかわかって生きていること。他人の庇護のもとで生きてないこと。奈々から見て自立している人々だ。
今なら「基地反対」を「原発反対」に置き換えるとわかりやすいかもしれない。

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