ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

早川書房
発売日:2011-05-20

非常に読み応えがあって面白かった。
「石油枯渇後の近未来でバンコクを舞台に、遺伝子操作された生物が主役となる話」という設定に惹きつけられて手にとったのだが、実際に読み進めてみると、深く作りこまれた設定と世界が素晴らしかったし、その世界で生きる人間同士のドラマが複雑に織り成されていて、こちらも見事だった。

徹底して登場人物の会話や独白で物語が進行するため、リアル感が非常に濃い反面、複雑で細かい設定を読者のためにまとめて説明する箇所がない。読者は容赦なく人間のるつぼのごときバンコクに放り込まれる。それがこの話を「わかりにくい」と放棄する人と、「面白い」とのめり込む人をふるい分けてるのではないだろうか。
特に秀逸だと思ったのは、歴史や文化の設定から小道具に至るまで、徹底的に構築されていることだ。マレーシアを追われ、お情けでタイ王国に入れてもらっているイエローカード中国人の設定、仏教をベースとしたタイ人のものの考え方、護身用の「ゼンマイ」銃、遺伝子操作の失敗作であり野良猫・野良犬を駆逐してしまった「チェシャ猫」などなど挙げれはきりがない。「お前なんかゴキブリに転生してしまえ」という悪口は輪廻転生の考えが行き渡っている国ならではだし。

世界の背景はおおよそ次のような感じ。石油が枯渇したため、動力はほとんど生物に頼っている。タクシーの代わりに人力車、モーターを回すのはゾウを改良したメトゴンドという巨大生物。あとはゼンマイが手軽な動力源として重宝されている。また、生物の遺伝子操作が盛んになり、人類にとって有用な動植物が作られたが、その見返りに新種のウィルスが蔓延し、人間を含む地上のあらゆる生物が存続の危機に瀕した。そんな世界を牛耳っているのは「カロリー企業」と呼ばれる安全な食物を提供できる合衆国由来の商社だった。

物語の舞台は東南アジアで唯一独立を保っているタイ王国の首都バンコク。タイがなぜ独立を保てたかというと、カロリー企業が喉から手が出るほど欲しがっている「種子バンク」を持っているからで、それさえあれば絶滅してしまった植物をよみがえらせることもできるのだ。もちろんそれだけではなく、外国企業の侵入を阻む国のシステムも大きく貢献していたのだが……。

この物語では、さまざまな登場人物に一様に焦点が当てられるので、起承転結のはっきりしたわかりやすいストーリーはない。あえて言うならバンコクの盛衰が中心となる物語だろうか。その代わり、立場も人種も文化も違う人々がバンコクという都市の中でどのように交わり影響しあうのか、という群像劇として見ると非常に楽しめる。

主な登場人物は6人。カロリー企業の一員としてタイに派遣されているアンダーソン。彼の下で働く「イエローカード」中国人のホク・セン。遺伝子操作の結果生まれた新人類である「ねじまき少女」、エミコ。タイの環境省の役人で「バンコクの虎」と恐れられた白シャツ隊隊長のジェイディーと、彼の死後仕事を引き継ぐ部下のカニヤ。環境省と対立する通産省の大臣アカラット。これらの人物がそれぞれ、己の信念や義務感、そして生存本能に導かれて互いに衝突したり妥協したり、さまざまな人間模様を織りなし、その模様はいつしか大きなうねりとなって社会を変えてゆく。
たとえば、アンダーソンとホク・センは上司と部下の関係でありながら、互いに信用していない。ホク・センは、かつてマレーシアで暴動が起こる前は商社の社長として尊敬を集める存在であり、今でこそ西洋人に使われているが、いつか返り咲く日を夢見て着々と手を打っている。具体的には企業秘密をバンコクの有力者に売り、その金で新天地へ脱出する腹づもりだ。アンダーソンはアンダーソンで、工場経営をしつつ、なんとかタイの種子バンクに接触できないかとツテを探しつつ、たまたま街の娼館で見かけたねじまき少女のエミコに夢中になってしまう。
いっぽう、タイ王国をさまざまな脅威から守ることを旨とする環境庁と、半鎖国状態から抜けだしてもっとカロリー企業と取引を増やしたい通産省は昔から仲が悪い。それがジェイディーの「行き過ぎた」密輸取締がきっかけで両省は一触即発の事態におちいる。そして内戦への引き金を弾いたのは、それらの取引とはまったく関係のないエミコだった。ただ自由を請い求める彼女の精神が暴走して、彼女を家畜のように扱った政府の要人を抹殺してしまったのが最後のダメ押しだった。内戦の中であらゆる人々の目論見が崩れ、命が失われ、ものごとの価値は逆転し、古い雑多な都市が水没してゆく。

アメリカ人の作者があえてアジアの一国を物語の舞台として選び、欧米人を侵略者として描いている。もちろんこれは、作者が大学で東アジアについて学び、実際に中国で暮らした経験もあるからこそ可能になったのだろうけど、でも仏教を中心に置く文化の理解度は相当なものだと思うし、日本人の描き方も他の欧米作家がやらかすのとは一味違う。アメリカ的資本主義の侵略を徹底して否定してみせるラストも壮絶だ。物語を求めるひとにはあまり向いていないが、設定フェチな人ならきっとハマる。

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