芥川賞受賞作の「道化師の蝶」ともう一作「松ノ枝の記」を収録。
ちょうどこの本を手に入れたのが上海旅行の直前で、読了したのが日本に帰ってきてからなのだが、この内容なら、飛行機の中で読むんだったと軽く後悔した。
話の中に「飛行機の中で読むに限る」というタイトルの本が出てきて、この、人をおちょくっているのかいないのかよくわからないタイトルが、実は「道化師の蝶」の別名に違いないと思い当たったからだった。ふだん自分の身体の一部のように扱っている「言語」を手際よく解体してゆく作業が非常に楽しい。

「道化師の蝶」

世界中を点々と移動しつつ、その時いる国の言葉で物語を紡ぐという謎の作家の存在について書かれている。書き残された膨大な作品のみが発見され、作者本人は決して見出されない。だからこの物語は、その作家を見出した人間、作家自身、作家を追う者、そして次にその作家になるかもしれない者など、いくつもの視点から紡ぎだされてゆく。

そのさまは、ひとつの網を何人もの手で編みついでゆく、あるいはいくつかのモチーフせをつなぎあわせてひとつの大きな網を作り上げるのに似ている。だから、個々のエピソードは断片的で視点はバラバラだし、時系列はずれている。あたかも、ふらふら飛び回る蝶を追うような気持ちで読み進めることになるけれども、それは、そもそも整合性のとれていない生の世界の断片を包む網なのだからどうしてもそうならざるを得ないんじゃないかな。たとえ風に舞う言の葉を捕まえるような作業に運良く成功したとしても、その言の葉は捕虫網の中で生命を失っているかもしれない、そんな類の物語。

興味を深くひいた点がひとつ。件の作家が新しい土地に入り新しい言語を学ぶやり方のことだ。最初はひたすら相手の言うことを真似して繰り返すことから始めるのだそうだ。言葉を繰り返し発音し、音を身体になじませる。すると自然に言葉の意味が立ち上ってくる。これは赤ん坊が言葉を覚える過程と似てはいないか。そして作家が数ヶ月、長くても一年後にその土地を離れると言葉も忘れてしまうという。ところが面白いことに後日その土地を再訪すると言葉も思い出すという。言葉とそれを使う人とその言葉が語られる土地はワンセットなのだと言いたげで。もし土地と言葉が密接につながっているのなら、言葉によって紡ぎ出される思考も同じようにつながっているわけで、だとすれば飛行機に乗っている時、思考に違和感が生じるのは当然なのだと思われる。

 

「松ノ枝の記」

これは「道化師の蝶」の姉妹編と言っていいくらいよく似たテーマが扱われている。「言語」だ。この話では翻訳作業、さらに読む能力と書く能力が切り離されてしまうという特殊な症候群を切り口として利用し、言葉の不可思議に迫っている。それだけではなく旅の本質についても語られていて、やはり「道化師の蝶」と通じるものがある。

設定はこう。日本人の作家とアメリカ人作家がいる。なにかのきっかけでネット上で知り合った二人は互いの作品を翻訳することにした。ところがお互い外国語はあまりうまく読み解けない。それでわからない部分は捏造する。でもそれはそれで話題を呼び、そこそこヒットするのだった。この二人、作業をすすめるうちに互いに暴走の度合いがひどくなり、ついには「相手が書くだろうと予想される作品の翻訳」にまで至る。(ぶっちゃけた話、完ぺきな翻訳というのは存在せず、大なり小なり翻訳者は原作の一部を捏造せざるを得ないわけで、それがこんな形でデフォルメされているとどうにも可笑しくてたまらない)

そんな馬鹿げたことを繰り返すうち、二人の作家はリアル世界で顔を合わせなくてはいけない事態になった。日本人作家が相手(「松の枝」氏と呼ばれている)の住処へ出向いのたはいいが、廃屋となった作家の家に松の枝氏本人はいなかった。が、彼の姉だと称する女性に会い、彼女から事情のすべてを聞く。

それは奇妙なことに、文字を読む脳内モジュールと書くための脳内モジュールが互いに半身を求め合って旅に出るような、シュールで少々ロマンチックな物語に落ち着くのだ。

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