久しぶりの読書会は、大胆にも宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を取り上げてみた。七夕が近いこの季節にピッタリ。

宮沢賢治は童話の世界の手塚治虫みたいな存在だと私は思っているが、なにしろ活動したのが大正~昭和の初期。文体も文章の持つリズムも現代の私達には少々馴染みにくいところがある。その一方で美しいけれど独特の比喩や描写もたくさんあるし、彼独自の倫理観も相まって、どれほど深淵で美しい物語だとしても、決して万人受けするわけではない、むしろ取っつきにくい人方が多いのではないか、というのがの実感。音楽の世界で言えばモーツァルトとマーラーを足して2で割ったような感じ(かえってわかりにくいですか? すみません;;)

今回読書会に参加してくれた人の内訳でも、ファン:中立:ちょっと無理 の比率は1:2:1だった。でも読書会はそれでいいのだ。一つの作品に対して多様な視点や感じ方があるということを知るために開いているようなものだから。

あらすじをざっくり語ると、、貧しく孤独な少年ジョバンニが、星祭の夜に夢の中で友人のカンパネルラとともに銀河鉄道に乗り込み、宇宙を旅するという話。その銀河鉄道というのは、実は亡くなった人たちの魂をのせて天上世界へ向かう汽車であり、燈台守や鳥捕り、沈没した豪華客船に乗っていた家庭教師と幼い姉妹などが同乗してくる。(ただし鳥捕りや燈台守は、元々銀河世界の住人ではないかと見受けられる)カムパネルラはといえば、溺れた友人を助けようとして自分が溺死してしまったところだった。この事実はジョバンニが夢から覚めた後にわかるのだけども。

全編とにかく美しいイメージで満ちている。美しいからこそ魂を天上へ届ける旅が物悲しい。

意外なのがキリスト教色が濃く出ている点だった。北十字星の近くを通る時は乗客はハレルヤコーラスの中、皆が祈りを捧げるし(ジョバンニとカンパネルラは見ているだけだけど)、南十字星では「神様」を信じている人たちは皆降りて天上の世界へ行く。沈没した客船に乗っていた家庭教師は、果たして人を押しのけてまで自分たちが助かってよいものか逡巡した末、幼い子供たちとともに海中に沈み、晴れて神様のもとへゆこうとしている。作者は彼らを肯定しているように見える。というか、この物語の舞台がイタリアの田舎町だということを思うと、これで自然な流れなのだろう。

でもカンパネルラは南十字星では降りない。彼はその次の駅、真っ暗な「石炭袋」が本当の天上だよと言って、そこに亡くなった母の姿を見(これはジョバンニには見えない)、そこで去ってしまう。カンパネルラはキリスト教の神の世界とは違う天上世界へゆくわけだ。ここが物語のキモなんだろうなと思う。キリスト教の神の上位に絶対的な存在を設定していること。これが賢治が言うところの「宇宙意志」にあたるのではないかいう気がする。

だとすれば銀河鉄道の旅は宇宙意志に至る旅で、カンパネルラはその懐へ帰り、ジョバンニはそれを見届けた。なぜジョバンニだけが生きたまま銀河鉄道に乗れたのだろう。この点については山ほど解説が出ているだろうけれど、自分的には、心優しいカンパネルラが親友を気の毒に思って連れて行ったのかもしれないと思う。カンパネルラは溺れた友人(しかもいじめっ子)を自分の命に代えてまで救える少年だ。彼が銀河鉄道に乗った時、気にかかっていたのは、いつもいじめられているのに助けてあげられなかったジョバンニのことではなかったか。最後に親友のためにできることとして、旅の同伴者になってもらい、宇宙の神秘を分かち合ったのかもしれない。

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