サリンジャー作品の中でも比較的人気のある”Franny & Zooey” に、村上春樹氏の手による新訳が出た。自分が最初に読んだのは野崎孝氏の翻訳で、かなり読みやすかった覚えがある。いい機会なので、新旧読み比べてみた。

全体的に「こなれた」感じの印象がある野崎訳はやはり読みやすい。今となっては古びてしまった言い回しも散見されるが、登場人物のカラーがきちんと伝わるようにした上で、日本語として完成した文体になっている。
いっぽう村上訳はというと、野崎訳が出た時代と現在とは当然ながら言葉に対するセンスやアメリカ文化に対する理解度が変化しているので、時代に応じて訳語が変わるのは当然だけども、それに加えて、英語を無理に日本語らしい表現に置き換えるよりは、英語のニュアンスをあえて残したまま日本文に置き換えてある、という印象を受けた。だから日本語の響きとしては、それらしくないというか、時としてぎこちない文章に感じる場面もあった。

なので、あまり複雑な構造を持たないシンプルな短編の「フラニー」は、野崎訳の方が読みやすく、人物の心の動きに無理なく寄り添える。
ところが「ゾーイ」(村上訳では「ズーイ」)になると状況が変わってくる。村上氏が別冊付録の訳者エッセイで分析しているように、こちらの物語は少々複雑な構造を持つ。この物語を書いているのは、サリンジャー本人ではなく、主役二人の兄であり大学で教えながら作家活動をしているという「バディ」なる人物が、主人公たちから事件の詳細を聞き取り、あたかもホームムービーを撮るかのように文章化した、という設定になっている。だから視線的にはこんな感じ。

サリンジャー→バディ→フラニー、ズーイ、母が引き起こしたドラマ

しかもバディがご丁寧にも「ホームムービー風に」と断っているように、視覚的な描写がとても多い(冴えたカットもそうでないのも含めて)。そして実際の映画によくあるように、画面に写り込んだモノたちに情景を語らせる。

例えば、バスルームで母が洗面台のキャビネットの中を点検するシーンがあるけれども、キャビネットの中のモノがいちいち書き出されている。歯磨き粉、髭剃りクリーム、化粧品、痛み止めや座薬など日常的に使う薬、さらには(誰かがポケットから取り出してそのまま置き去りにしたであろう)チケットの半券まで。するとグラス家の生活感と存在感がダイレクトに伝わってくる。

あるいは、ゾーイにとって大事な仕事道具であるはずのドラマの台本をバスルームのどこにどんな風に置くかという描写で、彼の関心がいまどこにあるのか、どんな気分でいるのか、を本人の口から語らせるよりもはっきりと伝えてみせる。

もちろんこの手法は「フラニー」でも使われていて、特に彼女がバッグの中身をテーブルの上に洗いざらい並べてみせるときの面白さがたまらないのだけど、「フラニー」においては、まだまだ会話のやりとりに重きが置かれている。だから登場人物たちが何を言っているのかをしっかり捉えた上で通りの良い日本語に直してある野崎訳はとても具合がいい。

しかし、会話と同じくらいモノたちに語らせている「ズーイ」の場合は、物語の流れや登場人物の感情の流れに重きが置いてある野崎訳よりも、淡々と英語をそのまま日本語に置き換えただけのように見える(実際は計算の上でそのような作業はなされており、直訳とは全く違う)村上訳の方が、格段に映画的な描写が生きていて良い。文字を追いながら、映像がくっきりと頭のなかに立ち上がる。バスルームでのズーイと母親のやりとりしかり、リビングでのフラニーとズーイの描写しかり。しかもそこにバディ特有の饒舌なトークが重なって、非常に印象的な世界が現れる。

ズーイが必死で頭脳をフル稼働させて、落ちこんでしまった妹の心をすくい上げる、その過程も感動的といえば感動的なのだが、それ以上にこの物語が展開される空間の半端ない存在感がすごくて、この存在感を生み出しているのが文体の力なのかと新鮮な驚きを感じたのだった。

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