学生のころ、サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」を読み終えたあと、次に手を伸ばしたのが、グラス・サーガに属する「フラニーとゾーイー」。
グラス・サーガというのは、ニューヨークに生まれ育ったグラス家の7人兄弟を軸に展開する一連の物語のことで、「ナイン・ストーリーズ」の一部と、「シーモア/序章・大工よ屋根の梁を高く上げよ」がこれに加わる。サリンジャー好きの間では、むしろ「ライ麦畑でつかまえて」よりも人気かもしれない。

参考までにグラス家の7人きょうだいを年の順に軽く紹介しておくと
シーモア:グラス家の精神的支柱だったが、新婚旅行中にホテルで拳銃自殺(「バナナフィッシュにうってつけの日」)
バディ:大学講師兼作家。サリンジャーが最も自己投影をしているキャラクター
ブーブー:結婚して田舎住まい。3児の母。
ウォルト&ウェイカー(双子):ウォルトは第二次世界大戦中、日本に進駐時にストーブの爆発事故で死亡。ウェイカーはカトリックの司祭として海外を飛び回る。ウォルトには恋人がいて彼女が「コネチカットのひょこひょこおじさん」に登場するエロイーズ。
ゾーイー:超美形。売れっ子ドラマ俳優
フラニー:女子大生生活を満喫(?)中。演劇に打ち込んでいた。

7人が7人とも非常に高い知能を持ち、「天才」の子ども回答者がクイズに答える人気ラジオ番組でレギュラー出演していた。また、長兄シーモアの影響で、おしなべて他のきょうだいたちは哲学・宗教オタク。東洋思想にも馴染んでいる。そして、本書の主役が7人きょうだいの下2人、フラニーとゾーイである。

「フラニー」
ある週末、フラニーはBFと待ち合わせてデートをするのだが、食事の最中にすっかり精神のバランスを崩してしまう。フラニーの異変にうろたえる彼氏の俗人ぶりが容赦なく描き出されている一方で、フラニーの自意識過剰ぶりも克明に描かれている。ただし、描写と会話だけで話が進むので、実際に彼女の内面で何が起きたかは推察するしかない。その時に大きな手がかりになるのが一冊の宗教書(ギリシャ正教の話らしい)。どうやらフラニーは自らの自意識過剰を抑えこむため、祈りの言葉(キリエ・エレイソン=主よ我をあわれみ給え)にすがることにしたようだが、うまく機能していない。
彼女の自意識過剰は兄シーモアと同質のものに見える。シーモアは自分の頭を撃ちぬくことですべてを終わらせてしまったが、フラニーはどうするのか。

「ゾーイ」
デートの最中に変調をきたした後、実家に引きこもってしまったフラニーを、ゾーイが(母に強く請願されて)何とかレスキューする。このいきさつを2番目の兄で物書きでもあるバディが後から聞いて、ドキュメンタリーとしてまとめた話。
まずはフラニーに手を焼いた母がゾーイに何とかしてくれと頼みにくるところから始まる。もちろん単刀直入に頼むのではなく、そこに至るまでには長い長い前置きが必要になるのだが。この時、シーモアはすでにこの世の人ではなく、バディは大学講師をしていたが電話もつながらない僻地に住んでいたし、ブーブーは結婚して家を出ており、ウェイカーは宣教師として海外にいる(ウォルトは事故死)。父親は健在だがことの重大性をわかっていない。ということで、あてにできるのはゾーイだけ、という状況。
でもゾーイには、なんで自分が親兄弟の尻拭いをしなくちゃならないんだという思いがある。というのも、ゾーイ自身フラニーが患っているのと同じ種類の自意識過剰に悩まされた経験があるからで、その原因がシーモアとバディにあることもよくわかっていたからだ。それで彼はのらりくらりと母の攻撃をかわす。この親子の攻防が最初の見どころで、このパートを読むと、グラス家のある意味特殊な状況がだいたいわかる仕組み。
母の説得に根負けして、自分が動く以外にどうしようもないと、ついに腹をくくったゾーイは、リビングのソファに横たわったまま一歩も動こうとしないフラニーのところへ行く。これが後半戦。折しも、グラス家のアパートは壁を塗り直す作業の真っ最中で、これが末っ子フラニーの成長の最後の曲がり角と重なっているところが興味深い。
ゾーイは与太話から初めて、だんだんと本質に斬りこむように、あの手この手で妹の心を開こうとするのだが、フラニーは恐ろしく頑なで「キリエ・エレイソン」をつぶやき続けるばかり。状況打開のためにゾーイは結局、すべての元凶である兄たち、シーモアとバディに頼ることになる。もちろん彼らを実際に呼び出したわけではない。
ゾーイが何をしたかというと、兄達の部屋に入り、残されていた電話から、バディを装ってリビングにあるもう一つの電話につないだのだ。今みたいに発信元の番号がわかるわけではないから、バディの声と話し方を真似ればフラニーは騙されるかもしれないし、バディの言うことなら耳を傾けるのではないかという計算をしてのことだ。さすがにすぐにバレてしまうが、少なくともフラニーは人の話を聞く態勢になった。そこでゾーイはもう一度説得をやり直し、最後にシーモアとのエピソードを語る。これは効果てきめんでフラニーはほとんど立ち直ってしまう。

フラニーは世の中のすべての人間(自分も含めて)が下らなく見える症状に陥っていて、このくだらない世界に背を向けるために「キリエ・エレイソン」とつぶやいていた。ゾーイが示したシーモアのエピソードは、ラジオ番組に出る前には「太ったおばさん」のために必ず靴を磨けという教え。「太ったおばさん」というのは、病気であまり動けずひがな一日籐椅子にすわって大音量でラジオを聞いているような架空の人のことで、つまるところラジオ出演者がその人のためにこそきちんと演じようと思える人のこと。さらにゾーイは「太ったおばさんこそが実はイエス・キリストなんだよ」とさえ言い切っている。だから世界のすべてが下らないわけではないのだと。
たぶん、日本的な感性で言えば「いいことも悪いこともすべてお天道様が見ている」にあたるのだと思うが、50年代に生きるアメリカ人はずいぶんと遠回りをする。

フラニーが立ち直ったのは、直接的にはシーモアの言葉のおかげだが、この二人をつなげるにはパイプ役としてゾーイ(そしてバディ)が必要であり、彼が俳優だったからこそうまくいったのではないかと思われる。俳優というのは自分の身にさまざまなキャラクターを憑依させることができるわけだから。
そして、フラニーもゾーイも(もちろん母も)シーモアの不在にとても打ちのめされていて、彼の思い出は家族をつなぐ軛(くびき)みたいなものになっている。シーモアだけでなくて、リビングの中にはグラス家の子どもたちが生きてきた証があちこちに刻印されており(カーペットのシミとか壊れた置き物など)、今はあちこちに飛び出している子どもたちがかつては確かにそこにいた、ということがひしひしと感じられる。
不在者の圧倒的な存在感。これはグラスサーガやナイン・ストーリーズに共通して流れる通奏低音と言ってもいいかもしれない。

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