時代は25世紀、人類は太陽系の他の惑星や衛星に移住し、「ジョウント」と呼ばれるテレポーテーション技術を手中にしていた。ある時、火星と木星の間で難破した宇宙船にたった一人残されて漂流する男性がいた。170日間生き延びたところで、ようやく船が近づいてきて救助されるかと思いきや、その船は故意に彼を見捨てていった。彼は怒りのあまり復讐鬼として目覚めた。そうして、ガリヴァー・フォイルの物語が始まる。
最初は無気力な労働者として描かれているフォイルは、復讐を果たす道のりで知識を身につけ、粗野で荒々しい自分をコントロールする力を身につけ、金の力で上流社会に食い込んでゆく。目的達成のためには殺人・強姦まるでお構いなし、という生き方は道徳的にかなり難があるが、凄まじいまでの生への執着には、つい引き込まれずにいられない。人間の業がうずを巻いて大きくなってゆくようなストーリー運びがとても魅力的だった。SFの分類で言えば「ワイドスクリーン・バロック」となる。

荒れた岩山をよじ上るような復讐譚もスリリングで面白いが、この世界独特のギミックが非常に面白く、後世の作品の多くに影響を与えている。
顔中に施された虎柄の刺青。奥歯に仕込まれた加速装置。前歯の視覚強化装置。改造された肉体。子どもの姿をしたテレパスの老人。美しく残酷なアルビノの令嬢。混乱した神経系統の表れとしての共感覚。宇宙を旅する意識。ほかにも書ききれないくらいあり、この作品の影響を受けたアニメやコミックは数え上げたらキリがない。

物語を構成する要素も多岐にわたり、細かく読み込んでゆくと、これが単なる復讐譚では終わらず、ピカレスク・ロマンでもあり、一種の宗教小説、人類の行く末を示す小説でもあるところが読み取れるのだが、先日の読書会(第2回名古屋SF読書会)であまり触れられなかった「女性の扱いが酷くはないか?」という点について考えてみたいと思う。

ヒロインとして登場する女性は3人。黒人教師で一方通行性のテレパス(自分の心の声は伝わるが他人の心は読めない)であるロビン・ウェンズバリー、洞窟病院(実質的には思想犯の収容所)で「ささやきライン」を通じて知り合った、赤毛のジスベラ・マックイーン、そして大富豪の令嬢、アルビノで目が不自由なオリヴィア・プレスタイン。3人はそれぞれ違う役割と立場でフォイルと深く関わることになる。

ロビンはジョウント能力の再教育教師として、難破船から生還後のフォイルを指導する立場だった。が、彼が実は自在にジョウントができ、実技の時間に好き勝手な場所へ出かけていることに気づき、テレパシーを通じてその場にいた生徒全員に伝えてしまったので、逆ギレしたフォイルに家までつけられ「邪魔をするな」と脅される羽目になる。それだけでなく、後に大金を手に入れたフォイルが上流社会に食い込む時、行方不明の家族を見つける手伝いをするという条件でロビンは彼に社交術を指南するよう迫られる。しばらく二人は上手くやっていたものの、フォイルが大富豪の令嬢と恋に落ちたあげく、彼女に近づく手伝いをしてくれと頼んでくると、ロビンは怒りのあまり彼の前から姿を消し、彼を付け狙う中央情報局へと密告しにいく。そして情報局の将校に気に入られ、親密な仲に。

ジスベラはフォイルに「知」を与え、彼とともに洞窟病院の脱出に成功する。さらにフォイルを知り合いの医師のもとへ連れてゆき、顔の刺青を除去してもらい、二人してお宝が積まれていたという難破船の回収を敢行するが、追手に迫られてトラブルが起きると、ジスベラはフォイルに見捨てられてしまう。一度は命がないものと思われたジスベラだったが、彼女は追手側のボスに助けられ恋仲になる。

オリヴィアはフォイルの宿敵プレスタイン家の箱入り娘。アルビノとして生まれ、珊瑚色の瞳は赤外線より長い波長の電磁波を光として捉える。つまり、一般人が見ているものが見えず、彼らが見えないものを見ているわけで、人の姿は熱を発する塊として感知される。フォイルと出会ったのは、ニューヨークが核攻撃を受けた新年の日で、偽名を使い、うまく上流社会に入り込んだフォイルに、父プレスタイン自ら引きあわせた。プレスタインとしては娘がこんな成り上がり青年に興味を示すはずがないと思いこんでいたのだが、とんだ誤算だった。フォイルはオリヴィアに一目惚れし、オリヴィアもまた彼を特別な存在だと認めた。オリヴィアはフォイルにとってのファム・ファタールとなった。かつて難破船で漂っていたフォイルを見捨てたのは、オリヴィアが指揮を取る船だったからだ。彼女は女性である上に障害者という2重のハンデを負っており、一見籠の鳥に見えるが、実は世界に対する復讐心に燃え、裏で悪事に手を染めていたというわけだ。復讐の相手が愛する相手と同じだったと知った時、フォイルはようやく道徳的に目覚め、彼女を受け入れることも拒否することもせず、ただ、離れてゆく。

こうしてみると、オリヴィアはともかくロビンもジスベラも、自分のことしか考えていないフォイルからなかなか酷い仕打ちを受けている。ジスベラは元来気の強い性分で、フォイルにきっちりお仕置きをする場面もあるのだが、ロビンなど、さんざん脅されて利用された挙句に恋の手引をしろと来るので、ぶち切れて当然。だが、ふたりとも強い。フォイルに振り回されて人生を棒に振るかと言えば、全然そういうことはなくて、彼を見返すかのように、最終的にはそれぞれふさわしい男性と一緒になっている。さらに、3人とも物語上で重要な役を担い、本質的には男性に頼らず自立できる女性として描かれている。お飾りや賑やかしでなく、明確な役割と自立したキャラクターを持った人間として描かれていること。これはとても大切だ。

本作の初出が1956年。比較のためにル=グィンの「ゲド戦記・影との戦い」が1968年(なぜ「影との戦い」かというと、後々、作者自身が「女性の存在をほとんど考慮していなかった」と反省しているので」)。当時のアメリカにおいて、女性の生き方は著しく制限されていた。それを象徴するのが、1973年の「ロー対ウェイド事件」で、この時にはじめて「女性には堕胎の権利がある」と認められた。それまで女性は堕胎どころか避妊すら認められなかったのだ。アメリカは自由の国といいながら、近年までピューリタニズムが生きていて、道徳的にひどく保守的な面があり「女性が自分の意志を持って自由に生きるなんてとんでもない」という考えが一部に根強く残っている。ジスベラやロビン、オリヴィアのように主体的に行動する女性像というのは、ある意味当時の女性の憧れだったように思う。しかし、彼女たち(除くオリヴィア)が結局は人妻になってしまうことを思うと、それが当時の女性の「自由」の限界だったのかもしれない。

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