先だっての9月26日、「名古屋SFシンポジウム2015」を聞きに行ってきた。大学の講義ではないけれど感覚的には「聴講」という言葉がぴったりな、内容の濃いシンポだった。詳細はこちらに→

今年のテーマは「ここではないどこかへ」。
内容は三部に分かれており、タイトルとパネラーは次の通り。
パネル1 「宇宙SFは今」林譲治・中村融
パネル2 「東欧SFを語る」大野典宏
パネル3 「クトゥルフ神話への誘い」増田まもる・立原透耶

時間の都合でパネル3は聞くことができず、しかもそれが一番面白かったという噂を後から目にして残念感は半端無いけれど、前半だけでも充分興味深く、参加費無料というのが申し訳なく感じられるほどだった。
以下、自分のメモ書きをもとに、パネル1と2の内容を軽く紹介。

パネル1では、宇宙SFの創成期から現在に至るまでの流れをざっくりと。現実世界の宇宙開発とSF作品がどのようにリンクしているかが興味深く語られる。
特にアンテナにひっかかったのが、宇宙開発を支えた思想の話。一例として「人類は進化の結果として宇宙へ進出しなくてはならない」と信じていたロシアの思想家ニコライ・フョードロフ(『屍者の帝国』にも重要な役割を持って登場する)の名が挙げられた。この思想にキリスト教的立場で真っ向から批判したのがC.S.ルイス(『ナルニア国物語』の作者として有名)で、その理由が「汚れた地上のブツを神聖なる天上世界に持ちだしてはならない」だったという。この対立は後述する西欧と東欧の違いをそのまま反映していて、とても象徴的だ。
その後、ソ連によるスプートニクの打ち上げがあると、今度はアメリカとソ連の宇宙戦争をネタにしたJeff Suttonの”First on the Moon”が出版されたりするし、冷戦が終わり、宇宙開発競争の熱が冷めるとともにコストが重要視される時代になると、SF作品のテーマもテクノロジー重視から経済的、社会的なリアリティを重視する方向に変わってきたという。あまりにリアルを重視し過ぎると夢がなくなるという話も。
今流行りの「火星の人」については、漂流モノは昔からの定番で(例:ゼログラビティ、アポロ13など)、この場合、「宇宙」という状況はSF的というよりも、漂流モノの設定の一つ(言い換えれば異世界のひとつ)として機能しているというコメントが出てきた。また、たったひとり取り残されるのと、集団で取り残されるのとでは、ドラマツルギーが違ってくるという指摘には、なるほどー、と強く頷きまくる。
さらに目からウロコだったのは、SFの宿命とでも言えるテクノロジーの陳腐化について。たとえ作品内で使われているテクノロジーが古くなっていたり、現代ではあり得ないものになっていたとしても、ロジックが作品内で破綻なく完結しており、作品の本質が損なわれていなければ、その作品はいつの時代になっても読むに耐え得るのだということ。これについてはファンタジー作品(特にハイ・ファンタジーと言われる、世界をまるごと構築するタイプの物語)についても同じことが当てはまるだろうなあと、やはり強く頷かずにはいられなかった。
以上、作家と翻訳家による深い考察でありました。

パネル2は、日本ではいまひとつ馴染みの薄い東欧SFについて。
まずは「東欧」とはどこからどこまで? という話にはじまり、東欧におけるSFの概念や立ち位置についての説明が続く。自分的にはこれがとても興味深かった。
東欧に含まれる地域(主として第二次世界大戦後、旧ソビエト連邦の支配下にあった国々)は、宗教で言うとギリシャ正教の流れを組む東方教会系がほとんどだ。この東方教会というのは、土着の信仰と交じり合いつつ、宗派が多種多様に分かれていったようで、キリスト教といえども、西ヨーロッパを支配したカトリックやプロテスタントとはだいぶ毛色が違い、必ずしもたったひとつの神を強要するわけではないらしい。おかけで各地に伝わる神話や伝説の類は、潰されることなく受け継がれているし、日本で言う妖怪のような存在もあるという。西欧よりも東欧のほうが日本人の感性に近いのではないだろうかという話だった。(少し脱線するが、音楽的にも東欧の音楽は日本と近いなと思わせるものがある。ロシアやスラブの国々の音楽には、一種の土臭さを感じるのだが、それは日本の民謡や祭りばやしに近いノリがあるからだろう)
また、小説の概念も西欧とは少々異なる。東欧には「ファンタスチカ」というジャンルがあり、そこにはファンタジー、幻想文学、ホラー、そしてSFなどがいっしょくたになって放り込まれている。これらの共通点は何かというと、実際に見えているものをデフォルメすることにより、物事の本質を描くということだ。その際のデフォルメの手法がFTであったり、ホラーであったりSFであったりするだけなのだ。だから欧米のSFを読み慣れた目で見ると、東欧のSFは多くの要素が入りすぎて不可解に映るのかもしれない。
また、東欧SFが混沌としている印象を与える理由のひとつとして、「わからないものはわからないと正直に告白する科学的誠実さ」があるという話が印象的だった。それっぽい偽りの解決を与えて読者にウソをつくような真似はしないし、勧善懲悪もない。キリスト教的な価値観には従わず、あくまで科学的思考に基づこうとするし、科学の後ろには哲学がある(このあたりは完全にギリシャの遺伝子を引き継いでいる気がする)。神学と科学的事実との齟齬を何とか解決しようと涙ぐましい努力をしてきた西欧とはずいぶん状況が違うなあと感じた。
最後はおすすめの映像作品の紹介など。これは楽しかった。実は、事前に参考資料として、主な東欧SFの作品をリスト化したレジュメが配布されていたのだが、これが資料的には宝の山だったし、レジュメにはなかったが、実物で紹介された、児童向けの「はじめて出会う世界のおはなし」シリーズ(東宣出版)が、ひどく面白そうでこれは制覇したいと思った。というか、ぜひ子どもたちにも読んで欲しい(つまり学校の図書室において欲しいということで)。
タルコフスキーが映像化した「ソラリス」や「ストーカー」、「サクリファイス」は東欧SFに入るのだと気付き、また、SFではないので作品リストにはなかったけど、大昔に話題になったクエイ兄弟による「ストリート・オブ・クロコダイル」を思い出したりして、東欧SFにハマったら抜け出せない予感がひしひしと押し寄せてきた。

いやはや、大変刺激になるシンポジウムで、最後までいられなかったのが本当に心残り。

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