「脳スキャン技術により開発されたVRシステム〈ゼンデギ〉――マーティンは幼い息子のため、そこに〈ヴァーチャル・マーティン〉を作るが……」
というのが帯文。読み始める前は、ヴァーチャル人間が当たり前のように存在する世界で人間の存在を脅かすような大事件がおきるのかと期待したが、実際はヴァーチャル人間が作れるようになるまでの技術的な苦労話と、息子のために自分のヴァーチャル分身を作ろうとして、それはイカンと死の直前に気づいた父親の哀愁漂う物語だった。

舞台はイラン。かつてペルシャ文化が栄えた地域。そこにジャーナリストとして訪れたマーティンは、民主化革命の渦に巻き込まれつつ、現地の女性と恋に落ちて結婚し、イランに腰を据えることにした。が、子どもが生まれて6年後、事故のために妻は死んでしまい、マーティン自身も事故の検査の際にガンが発見され、余命いくばくもないと宣告される。その時たまたま脳スキャンの研究をしている科学者と知り合い、自分の脳データを読み取ってヴァーチャル・マーティンを作れないかと持ちかけるのだ。時代は2030年代で、「ゼンデギ」(ペルシャ語で「LIFE」という意味)というバーチャル空間であそぶゲームが流行っている頃だった。ヴァーチャル人間というのは、作中では「プロキシ」と言及されており、ゲーム内でモブを演じるための架空の人格のことだ。「アバター」といったほうが通りが良いかもしれない。マーティンは脳スキャンデータを合成することで自分の死後もゼンデギの中に自分の「プロキシ」を残せないかと考えたのだった。実際、脳スキャンシステムはまだ開発黎明期で、マーティンの申し出は受け入れられたものの、成功を保証されたわけではなく、彼の死の直前に「完成」されたヴァーチャル・マーティンはやはりリアルマーティンの代わりとはならず、最終的に破棄されてしまう。彼の息子は、イラン人の友のもとで育てられることになるが、最後にはそれを受け入れてこの世を去るマーティンだった。

イーガンの他の作品に見られるようなSF的要素はあまり濃くなく、SF的要素を背景にしつつ、親子関係に焦点をあてたドラマとも受け取れる。また、オーストラリア人のマーティンがイランに飛び込むことで、文化的な摩擦と受容も描こうとしているようにも思える。
前者については、マーティン⇒息子に対する愛情+親のエゴが描き出されているだけでなく、脳スキャン技術を扱う科学者ナシムの亡き父親に対する思いが、それまでアメリカで築いたキャリアを捨てて祖国イランへ里帰りしてしまったエピソードからも伺える。
後者については、前半では記者として革命の流れを描写するときに度々出てくるし、一番重みを持つのは、我が子を異文化育ちの人間に託せない、そのくらいならヴァーチャルな自分を作って息子を導きたいと思ってしまうマーティンの心根。もちろん、この思い込みについては最後にきちんと解消され、受容へとつながるのだが。

ヴァーチャル・ゲームマシンとして「ゼンデギ」が登場するが、そこでマーティン親子が何を体験したかというと、イラン(ペルシャ世界)に伝わる叙事詩「シャーナーメ」をVR化した世界。そこでいつくかの冒険をする。結構ページが割かれており、断片的ではあるが、叙事詩の豊かな世界、長らく人々に受け継がれてきた物語の強靭さを感じ取ることができる。もしかして作者がVRゲームを登場させたのは、シャーナーメを紹介したかったからなのか? と思えるほどだ。
同時にふっと頭をよぎったのが、ゲーム内に登場するプロキシと、作家が物語の中に登場させるそれぞれのキャラクターとは、さほど生まれ方に差異はないのではないか、ということだった。膨大な脳スキャンデータを抽出して、人間らしい振る舞いを持たされたプロキシと、作家の脳内に蓄積された記憶から生まれる物語の登場人物。もしかしたら、私たちははるか昔から物語世界において、キャラクターという名の仮想人格と付き合ってきたのではないだろうか。

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