2016年12月現在、快調に観客動員数を伸ばしている映画「この世界の片隅に」の原作について感じたことを語ってみようと思う。

昭和19年~20年にかけて、広島から呉市へ嫁いできた北条すずの日常と成長を描く物語。戦争のさなか、食料や物資がひっ迫していく中で、なんとか日常の暮らしを保ち、人らしく生きていこうとするすずの奮闘ぶりが描かれる。時とともに確実に生活に影を落としてくる戦争、軍港としてにぎわった呉、戦争が始まる前の活気にあふれた広島の街の様子などが丁寧に描かれている。空襲や原爆も同じように丁寧で噓のない筆致で、時には容赦なく描かれている。

人気作だけあって、いま、ネットでこの作品の感想や評を探すと、優れたものがすぐに見つかる。作品の構造や時代に与える意義などに関してはそちらを参照してもらうとして、ここにはごく個人的な感想を置いておく。

読了直後は、内容のあまりの濃さにただ呆然とするばかりだった。理由は主に3つあると思う。ひとつは、作者独特の表現方法のおかげで、言葉にできない感情が、言葉によらないまま描かれていること。だから読みながら感じていった感情を言語化するのに労力がいる。もうひとつは、受け止めきれなかったり、取りこぼしてしまった表現がたくさんあること。そして、最後は物語が発するメッセージの深さと重さ。人の半生をまるっと体験して、その重みをたちまち言葉で表現できたとしたら、それは言葉が薄いか体験が薄いかのどちらかだ。優れた作品は多面的な読み方を読者に許すし、逆に読者にとっては、己を映す鏡になり得る。この作品の中に何を見るかは、読み手の背負っているものを残酷なぐらい反映するものと思う。ちなみに自分がこの作品に見出したのは、喪失と希望だった。

注意:ここから、遠慮無用のネタバレが始まります。避けたい方は回れ右をおすすめします。

 

 

 

全体的なトーンは、すずのほんわかした性格に影響されて、シビアさはあまり感じないのだが、戦争という名のもとに、人々の日常が少しずつ変容してゆく過程が静かに丁寧に、ユーモアさえ交えて語られる。でもそのユーモアは切なさと裏腹で、気づかないうちに心の底がヒリヒリしてくるのがわかる。

戦争が激しくなるにつれて、すずは次々に大切なものを失う。実家の家族を原爆で亡くし、空襲で友人を失い、可愛がっていた姪っ子も時限爆弾にやられ、すずの最大の心のよりどころである、絵を描く右手をも失った。子どもはもとよりいない(最初から失われている)が、原因は栄養失調と過労のため月のものが止まってしまったせいだと医者には言われている。つまり食料や物資が足りないせいだ。それでもまだ、すずの命はあるわけだし、北条の家も家族も無事である(もちろん姪っ子をのぞいて)。だから周囲の人々はすずに「良かったねぇ」と声をかける。すずよりもっと悲惨な目にあった人々はいくらでもいるのだから。

でもすずは全然納得できない。自分がついていながら、大切な姪っ子を死なせ、右手を失って家事もろくにできない嫁のどこに居場所があるというのだろうと思い悩む。すずは、そもそも北条家に嫁がなかったらあり得たかもしれないもう一つの未来さえ思い描く。それはすずが初恋の水原哲といっしょになる未来であり、夫の周作がすずではなく花街のリンを迎え入れる未来である(リンにとって周作は「お客」以上の存在だったようだ)。いっそ、北条家が燃えてしまえばいい、そうすれば自分も堂々と呉の町を出て行けるとさえ、すずは思い詰める。ついには実家に帰ると周作に宣言した。

しかし、すずは帰らなかった。亡くなってしまった姪っ子の母であり周作の姉である径子のおかげだ。彼女は恋愛結婚を果たしたものの、夫に先立たれ、嫁ぎ先の店は取り壊され、長男を手放して実家に帰ってきた出戻り女性である。そして幼い娘を爆弾で失ったばかり。すず以上に大事なものを失っている。でも、径子はあっけらんと、自分で選んだ道だから不幸せとはちがうと言い、逆に請われるまま嫁いできたすずのことを「あんたの人生はさぞやつまらんじゃろ思うわ」と言ってのける。でもすずのことはとっくに許しているし、すずさえその気ならずっと北条家で面倒を見るという。ふだんは嫌味たらたらの怖い怖い小姑姉さんなのに。

恐らくすずは、この時にようやく径子の強さと優しさに気づいたのだろう。自分の居場所は北条家だと悟ったのだ。そして戦争は唐突に終わり、人々は少しずつ失われたものを取り戻し始める。もちろん、失われた人や街並みが戻るわけではない。だが、希望を持つことは許されるし、以前と違う形で再生が進んでゆく。すずのもとへも、失われた右手に導かれるようにして幼い命(戦争孤児)がやってきた。

もともとは戦時中の日常を描く漫画として始まったものが、最後には失われたものたちゆ「選ばなかった未来」とどう折りあうのか、という物語になっていた。それだけでなく、失われたものの側に立った視点さえある。

空襲や原爆のためにそれはそれは大勢の人々が亡くなり、その時の広島や呉は、彼岸と此岸が同居しているような状態になった。生者と死者が共存しているような空間だ。焼け跡の町で「誰もが誰かを探している」といセリフは、そういう状態を表すのにぴったりな言葉で、生きている人間は友人家族の死が認められず、死んでしまった者にとっては、いまだ自らの死が自覚できていない状態をうまく表していると思う。そんな状況の中、物語の終盤で、すずの失われた右手が語り始める。もちろん絵で。その内容は、リンの生い立ちであったり、「鬼ィチャン」のその後であったり、原爆で母を失いひとり広島の町をさまい歩いていた少女の物語であったり。「どこにでも宿る愛」と語る右手のメッセージは、彼岸へ行ってしまったものたちが此岸に残ったものたちに託した希望の手紙かもしれない。

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