(※最初にお断わりしておきますが、これは読書会のレポートではありせん。読書会で語られた内容を元に、管理人があれこれ考えたことを書き連ねています)

はや9回目となった名古屋SF読書会の課題本は、満を持して、フィリップ・K・ディック『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』となった。「ブレードランナー」の原作として知られ、キャッチーなタイトルのおかげもあって、大変人気の高い作品で、若い頃に読んだという参加者多数。また、そのためか新規の参加者も増えたようで、喜ばしい限り。

今回の参加者数は26名。3テーブルに別れて、まったりと感想を述べ合ったり、熱く語ったりと、それぞれに楽しいひとときを過した模様。中には「ディックが好きすぎて冷静に語れない」という猛者も!
再読率が非常に高く、自分のテーブルに至っては全員再読組で、「暗い話かと思ったら案外そうではなかった」とか、「前と違う面白さに気づいた」など、再読ならではの気づきがたくさん紹介されて面白かった。
自分的には、「あれ、こんなに面白かったっけ?」という驚きとともに、ありがちな悪妻だと思っていた妻のイーランが、再読したらすっかりポイントが上がった。夫が危険極まりない一日を過してようやくつかんだ真実を、彼女はとっくに知っていたのだから。

読書会のスタイルは、自己紹介からのフリーディスカッション、その後、各テーブルで出た意見を互いに紹介しあうという、いつものやり方。(そしてフリーディスカッションをうまく回すには結構コツがいるのだと気づくなど)
最後は、テーブルごとにホワイトボードに書き付けられた意見やキーワードを参考にしつつ、司会担当者がグループ内で出た意見をまとめて報告する。
毎回思うのだが、板書スタイルは、板書係のセンスが露骨に出るのがなかなか興味深いというか、味わい深い。項目ごとにまとめようとする人、関連するキーワード同士を線でつなぐ人、とにかく出た意見を片っ端から並べる人、板書する内容をあらかじめフィルターにかける人。個人的には、線でつなぐタイプが好きだったりする。

それはさておき、どんな意見が関心を引いたかというと、大きく分けて3種類。

  • あのラストは本当にハッピーエンドなのか?
  • リックとイジドアという主人公二人体制
  • マーサー教って何?

「ハッピーエンド」については、解説でそのように触れられているのだが、実際には「は、はっぴーえんど? 言われてみれば、だけど……」という反応が多かった。どちらかというと、もやっとした感覚のぬぐえない読後感を感じる人の方が多いようで。
あらためてストーリーを確認してみれば、主人公は、朝こそもやっとした冴えない気分で仕事に出かけるが、運良くアンドロイド狩りの仕事が回ってきて、途中、かなり危ない目にあったり、倫理観が揺らいだりして心身ともに死にそうな目にあうが、最終的には多額の懸賞金と救いを得て妻の元に無事戻り、すやすやと眠りにつく。しかも「人間」は誰も死なない。少なくともバッドエンドではないし、むしろ完全に主人公側の勝利。
それなら、どうして微妙な割り切れなさが残るのだろう。
ひとつ思い当たるのが、「地球はキップル(がらくた)と放射能の灰に覆い尽くされる寸前」という救いがたい設定になっていること。とりあえずは人間が勝利したけれど、将来的にはみんなキップルに飲まれるんじゃないかという予感から来るもやっと感。もうひとつは、主人公が抱えていた、人生に対するやり切れなさが読み手に伝染し、しかも読み手を差し置いて主人公はさっさと救われてしまったこと。(このあたりがディックって容赦ない)

「主人公二人体制」に関しては、バウンティハンターであるリック視点と、「スペシャル(不適格)」の烙印を押され、見捨てられた集合住宅の一室で暮らしているイジドア視点の2パートが交互に進められ、最後に二人が顔を合わせ、ストーリーが一本にまとまるという構成で、実はイジドアも大事な役割を負わされているのでは?という意見が数人から出て「だよねー」とうなずいた。
一見、関係のなさそうな二人の視点で交互に語られる構成が、フォークナー『八月の光』とよく似ているなあと思っていたら、司会のN先生が「逃亡アンドロイドは逃亡黒人奴隷のメタファー」と言われてものすごく腑に落ちた。逃亡黒人奴隷そのものは、作品が書かれた当時すでに手垢のついた題材になっていたと思われるが、それにSF世界をかぶせて、さらに深遠な問いへ持っていったディックすごい、と思ったのだった。
さらに、ディック作品には主人公を二人立てる話がいくつもあると聞き、これは、ディックがもともと双子として生まれたことと関係があるのでは、という指摘はとても興味深かった。
たとえば、いわゆる「負け組」のイジドアは、どちらかというと「勝ち組」に入るリックの影でもある。二人とも同じ(型の)アンドロイドを愛し、一人は生かそうとし、一人は殺そうとした、という指摘には「ほんとそれ」とうなずくほかはない。

「マーサー教て何?」 
これは電気羊の世界で大本命の問いではないかと思うのだが、どうだろう。
ぱっと読んだ感じでは、いかにもニューエイジ風なキリスト教のパロディだなと思った。未来永劫受難の旅を続け、宇宙中の人類の共感の依り代として存在するマーサー。彼につながると、彼につながっている他の人々とも意識を共有できるというもの。
宗教ではないが、人々がみんな知っていて大好きな共有物がもうひとつある。それはテレビとテレビに出演する人気コメディアン「バスター・フレンドリー」。
朝から晩までワイドショーの司会をしているバスター・フレンドリーは、実はアンドロイドであるというネタばらしが作中でなされるのだけど、アンドロイドとテレビってなんて相性がいいのだろうと感心するばかり。テレビに支配されている時点で、もうアンドロイドに支配されているようなものだと思う。
いっぽう、マーサーに実体はあってないようなもので、「共感ボックス」の映像がたとえ作り物だとワイドショーで暴露されても、やはりマーサーは悩めるリックや怯えるイジドアの前に現れる。しかも、個人的体験として。こうなると、昔話によくあるような、主人公が絶体絶命のピンチに陥ったときに現れる観音様やマリア様的な感じで、超自然的な存在としか思えない。
で、そのマーサーは、アンドロイドに愛着を感じるようになって混乱するリックには「正しくないとしてもやるべきことをやるのが人生だ」と彼の仕事を肯定する一方で、電気じかけの生き物も自然の生き物も、それなりの命があるし、あっても良いのだと諭すわけだが、アニミズムを肯定しているようにも見えて興味深い。
このあたりは、今話題のAIに通じるところがあって、たとえ自然な会話が人間と交わせるAIであっても、そのおおもとはあくまでもプログラムであって、人間が持っているような意思を働かせての会話とは違うという話が出たが、すると、AIにしてもアンドロイドにしても、どれだけ人間らしい反応をしたとしても、しょせんモノでしかないということになる。人間らしい反応をする人形、と言い換えてもいいのかもしれない。人形は人間に愛着を抱かないが、その逆は大いにある。人間が愛着を抱いた時点で、その対象物には一種の命がやどるのだとすれば、人間こそ、モノに命を与える特殊能力の持ち主ということにならないだろうか。

結論:人間は、電気羊の夢を見るアンドロイドを夢見ることができる。

(ぜんぜん落ちてません。お目汚し失礼しました)

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