先日、片渕須直監督の初期作『アリーテ姫』を見てみた。正直なところエンタメとして成功しているとは言い難いのだが、表現の方向性や各所に散りばめられたモチーフの意味を考えるにつれ、空恐ろしくなってきたので、その理由について考えてみようと思う。
まずは原作となる『アリーテ姫の冒険』についてざっと紹介。
悪い魔法使いのもとへ無理やり嫁がされたうえ、お城の地下室に閉じ込められたお姫様が、三つの冒険に出て最後には魔法使いを自滅させるお話。お姫様が冒険する童話があってもいいじゃない? という発想で作られた女の子のための「童話」。したがって、フェミ色はかなり強い。
たとえばアリーテ姫の造形。白馬の王子様を待つなんて夢にも思わず、聡明で手仕事の大好きな娘として描かれている。しかし、父王は娘の賢さを非常に嫌悪する。というのも、賢くては嫁の貰い手がないからだ。事実、アリーテ姫は求婚に来た王子たちのプライドをズタズタにしてしまい、まともな王子は来なくなった。
悪い魔法使いによって地下室に閉じ込められた姫は、泣き暮らすどころかまったくへこたれる様子はない。汚い地下室を居心地のよい空間にし、手仕事でさまざまな物を作り出して周囲の者に分け与えては友を増やし、悪い魔法使いが厄介払いのために課した三つの難題は、武力や魔力ではなく知恵と愛情をもって難なくクリアしてしまう。結果、悪い魔法使いは自滅し、姫さまは魔法使いの城のあるじとなり、さらに国民の支持を得て王の座を継ぎ、めでたしめでたし。
男性を権力と破壊の象徴、女性を創造力の象徴として、わかりやすくも、ややステレオタイプ的に描いている。
これを片淵監督が料理するとどうなるか。他愛のない「童話」が毒入り紅茶になるような、不穏な空気を含んだ物語になってしまう。
(以下、ネタバレしかありません。避けたい方はどうかお戻りください)