クララとお日さま

初のカズオ・イシグロ作品読了。
人工知能を搭載した子ども用ロボット、AF(アーティフィシャル・フレンド)が販売されている世界が舞台。主人公はクララという高性能AF。彼女がパートナーとなる少女と出会い、購入され、彼女の家族や友人と触れ合いながら、職務に忠実に人間観察を続け、祈り、人に寄り添うAFとしての役目を全うしていく話。(以下、ネタバレ部分を含みます)

クララとお日さま
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柔らかな語り口

クララは少しだけ旧型のAI搭載ロボット。動力は太陽光。機能的には最新版に劣るが、秀でた観察眼と思考力、好奇心を持つ最高級のAF(人工親友)だ。が、あくまでも子供の見守り用マシンなので、知識が限定的で、物理法則や社会構成や歴史に関する情報がインストールされていない。そんな彼女が語り手になっているので、物語内では社会構成がぼんやりとしか分からない一方で、逆に知識のなさと優れた観察・推理がもたらす奇妙なアンバランスがクララ独自の「お日さま」信仰を生み出し、興味深い。

この物語世界でわかることといえば、子どもたちは「(能力)向上措置」という名の遺伝子編集を受けることができ、受けると大学など上位の学校に入れる(つまり上の階級に行ける)。ただ、この措置には健康上のリスクがあり、体質に合わないと命を落とすこともあるらしい。だとしても措置を受けた子とそうでない子の間には決定的な社会格差が生まれるので、親はできるだけ受けさせたい。また、大人の社会でも色々あるようで、優れた技術者が突然職を追われたり、様々な理由で社会から弾かれた人々が特殊な「コミュニティ」を作っていたりしているらしい。他にクララの語りからわかるのは都会と田舎があり、田舎では羊や雄牛が放牧されていること、人々は移動に(恐らくガソリンエンジンの)自動車を使っていること、ぐらいだろうか。

AI性善説と人間性

興味無いのは、AIの商業利用が当たり前の世界でも、人と人の関係性は濃密さを保ったままで描かれているところ。SF的な題材を利用しつつ、この小説で真に描かれているのは人間の挙動、特に人の心の機微だ。感情を持たないAIの視点を通すことで、人間の心の不思議さが浮かび上がる仕掛けになっている。それだけではなく、AIのクララにさえ心や信仰心に近いものが芽生えるさまも描かれている。しかもAIのそれは恐ろしく純粋な形で、まるで日本の初期のロボットアニメを見ているようだった。

でも、この小説は主人公のAIを善きものとして描くだけでは終わらない。AIの社会的活用という題材なら、さまざまな切り口が考えられる。例えば、よくあるのがAIを搭載したロボットが人の仕事を奪ったり、逆に人間にやらせるには危険で難しい仕事を請け負わせるりして、人間とAIの対立が起き、共存の道を探るような話。この作品でも、もちろんクララに対する周囲の人間の視線は厳しいものがある。要は家電と同じ認識なのだ。実際に売られているのもお洒落雑貨を扱う店だし、最後に行き着く場所も粗大ゴミ置き場。だからといってクララはじめ、AIたちは人間に対して反逆を起こすことなど思いつかない。作者の狙いは違うところにあって、それは「わたしを離さないで」の世界にも似て、代替品としてのAIなのだ。亡くなってしまった子供の完全な身代わりとなれるか。無理ならなぜ? 人とAIを隔てるものは何? と、そういう問題を扱いたかったのが見て取れる。

献身という美学

ただし、そのテーマはあまり深く突っ込まれず、代わりに前面に出てくるのは、クララの祈りだ。AIが祈れるのか、というのも興味深い問いではある。彼女は自分が「お日さま」の力で動いていることをよく知っており、また、ショーウィンドウに飾られていたころに実際に目にした出来事から、お日さまが特別な力を持っていると信じるに至る。たしかに太陽はエネルギーを地球に降り注いでいるし、地域や時代によっては太陽信仰が存在しているのも事実なのだが、そういった知識なしでたどり着くのが面白く、さらにクララは太陽に特別な人格を認め、自分の願いを届けることが可能だと信じているのだ。神の概念なんてどこで教わった?という感じなのだ。

クララは「ご主人さま」こと自分が仕える少女の役に立つことを至上命題としている。このことはAFの役目を果たす上で最も重要なことだから、そのようなプログラムがインストールされていることに何も不思議はない。だから少女の生命を救うためには何でもやる、という論理はわかる。そこで「お日さま」が起こした(と推測される)奇跡を彼女にも、というのもまあわかる。奇跡を呼ぶ方法として、特定の場所と時間に太陽に語りかける行為を選び取るところで「へぇ…」と感じるのだ。この飛躍はまるで人間ではないか。そして、彼女は自分の身を危険にさらしてまでご主人さまの生命と幸福を実現し、最後は廃材置き場で静かに自身の終わりを待つ。自分を含め、大抵の読者はこの辺りで参ってしまうのではないか。この作家はどこまでも執事萌なのだと思う。

「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」

仕事に追われる日が続くうち、気がつくと休日も仕事のことを考えるようになっていた。少しずつ脳内マップは仕事関係の領域が中央にせり出し、前々から大事にしていた趣味の領域――たとえば音楽とかアート関係のこととか、好きなジャンルの本のこととかが僻地に追いやられつつある。このままでは近いうちに別人になってしまう気がして、休みの日になると、できるだけ美術館に足を運んでその記録を書きとめておくようにしている。人のために書くというよりは、少し先の自分が読み返して、そんなこともあったなあと思い出す手がかりにするためだ。

そんな折に、某ブログサービスで読書感想企画を見つけ、課題図書を見ていくと、おや?と目に留まる本があった。それが『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』だ。以前に紹介文を見たことがあり、「インクルーシブ」が流行りだした今の時代に良さげな本だけどいつか機会があれば読もう、くらいのつもりでスルーしていたところ、「こんばんは。先日スルーされた”機会”です」と心のインターホンをピンポンされた格好だ。

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2020年の読書(コミックver)

もう10年以上前から、ブクログで読んだ本の記録をしているが、昨年は年間登録数が初めて100冊を超えた。ガツガツ読書に勤しんだかといえば、そんな余裕もなく、ただ現実逃避をかねてコミックを読みまくったせいだ。ただしマイルールを定めて、基本的には毎週2冊ずつ読み進め、コンプリートするのは「これは!」と気に入った作品のみにして、できるだけ知らない作品に幅広く手を付けることにした。

その結果、一年間に少しでも目を通した作品数は19作品。うち、コンプリートしたものが3作品。1冊のみの読み切りが1作品。リアルタイムで追い続けている作品が5作品。残りは途中で満足して、あるいは面白味を感じられずに切り上げた作品。まずは以下に作品名をあげておく(ほぼ時系列)。

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迫りくる虚無との戦い方

随分と大仰なタイトルをつけてしまったが、何の話かと言うと、村上春樹『国境の南、太陽の西』の読後感。

1992年に発表されたこの作品は、もともと『ねじまき鳥クロニクル』の中のエピソードだったが、内容が複雑になりすぎるという理由でカットされた章を独立させたものだという。そのためか、メインテーマの一つに「抗いがたい暴力的な吸引力」との戦いがある。

あらすじとしては、バーの経営者として成功し理想的な家庭に恵まれた37歳の「僕」の恋愛(?)遍歴。小学生の時に出会って親しくなった島本さん、高校生のときのガールフレンドのイズミ、いわゆるセフレ関係を結んだイズミの従姉妹、そして結婚相手として選んだ有紀子。作品の前半では彼女らとどんなふうに出会い、どんな気持ちを抱き、どんな別れをたどったか、という経緯が自叙伝のように語られる。恋愛というより性愛というほうがより実体に近い気がするが、それは「僕」が彼女たちに求めたのが生命の根源にかかわる何かだったからだろう。

彼女たちに対する愛着の度合いを、主人公は「吸引力」という言葉でしばしば表す。一番強力な吸引力を持つのが島本さん。次に有紀子。そしてイズミの従姉妹であり、実はイズミはとてもいい子であったものの「僕」の欠落を埋められるような吸引力は持っていないと明記されている。そして後に最も大きく損なわれるのが彼女だ。

物語は順風満帆だった主人公の人生に、島本さんがひょっこり姿を現すことで急展開を迎える。大人になった彼女は美しく謎めいていて、とてつもない事情を抱えているらしく、「僕」は強烈に惹きつけられ、たちまち家庭(成功した社会生活)をとるか魂の救済(何もかも捨てて島本さんと駆け落ちする)を取るかの間で大きく揺れ動くようになる。どちらを取っても失うものは大きい。

色々あって、「僕」は結果的に島本さんのいない世界で生きてゆくことになる。体良く言えば、島本さんは(おそらくは)彼のためを思って身を引いた。しかし彼の世界は色を失い、何もかもが無意味になり、魂の欠落は永遠に埋められそうにない。だが、彼には大事に育ててきた店があり、生活習慣があり、何より家族がある。変わり果てたイズミの姿を目にし、妻に諭され、彼はようやく気づくのだ。失われてしまったのは自分だけではないし、欠落とともに生きる人はたくさんいる。むしろ欠落の自覚こそが新しい生き方のスタートなのだと。

この作品の舞台となっているのは1988年前後。ちょうどバブル真っ盛りの時期で、街の描写や建設業にかかわる義父とのやりとりにバブルの様子が色濃く反映されている。はりぼてのような上辺の豪華さ、マネーゲーム、夢の国、幻想の提供……。バブルが弾ける前兆まで読み取れる。さらに一歩踏み込んで「僕」が島本さんや妻の中に見出した「吸引力」ですらバブル時代特有の幻想だったのでは?という気がする。

この作品、出版された当初はさんざんな評判だった記憶がある。何より平然と浮気をしているように見える「僕」に対する非難轟々。そして彼を取り巻く女性たちに対しては「男性にとって都合の良い女性ばかり」と言われたものだ。実際、男性視点なのは否めないし、女性は「僕」を導く教師のような役目を負わされている。しかしその後に書かれた『1Q84』では同じような設定(小学生の時に運命の出会いをした男女が主人公)を使いながら、女性の青豆の視点で描かれている。青豆は非常にタフで聡明な女性として描かれ、「こんな女性がリアルにいるわけがない」と言われてもおかしくないのだが、物語そのものが不思議な出来事に満ちているためか、あまりそのような批判は目に入らない。ちなみにこちらのカップルは世界を乗り換えることで見事結ばれる。それは取りも直さず村上ワールドの進化の結果ではないかと思っている。

〈蛇足かもしれない追記〉
島本さんについて、内容を振り返れば振り返るほど悪女というか、ひどい女性だなあと思う。最初は出来心からとはいえ、思い出の中の大事な人の世界に現れて、しかもその人生をぶち壊しにかかるんだもの。島本さんは存在するだけで関わる人達の人生を台無しにしてしまうタイプであるようだ。もちろんそれは主人公の「僕」についても言えるのだが、どうやら桁が違う破壊力を持っているらしい。もちろん彼女はそのことに自覚的で、だからこそ最後の最後で「僕」のもとから消えるという選択をしたのだろう。このタイプの女性はファム・ファタールとして知られ、19世紀末の芸術作品にしばしば登場する。

自分サイズのアメリカ文学指南書

アメリカ文学といえば、もう何十年も前から有名どころが紹介されてきて(中高年を中心に)ファンも多く、何を今さらという感じではあるが、この本はアメリカ文学愛が溢れていて、心に響く内容だった。前半で比較的現代に近い作家やミュージシャンを取り上げ(ノーベル文学賞を受賞したボブ・デュランも入ってます)、後半では古典となっているメルヴィルやホーソーンを取り上げ、現代から読み直した解釈をしている。

『生きづらいこの世界で、アメリカ文学を読もう』堀内 正規 著

タイトルの名前そのままに、社会からこぼれ落ちそうな人の心や、はみ出さずにはいられない生き様にスポットを当て、そういう人生もありなのだと肯定するような作品の選択と読みがなされている。ままならない人の生を描き出す文学作品は世界各地にあるが、ここで紹介されている作品群はいずれも「アメリカでしか生まれなかった」という。資本主義経済が高度に発達し、自由なようでいて実は差別が根強く残るアメリカの閉塞感と、現在の日本、特に「ロスト・ジェネレーション」が抱える閉塞感は通じるように思うのだ。

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