「知のミクロコスモス: 中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー」

4120045951 知のミクロコスモス: 中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー
ヒロ・ヒライ
中央公論新社 2014-03-07by G-Tools

中世から近代へ移り変わる15-16世紀、ヨーロッパの知識人たちは何と格闘していたかのを、当時の世相に照らし合わせながら解読しようとする試み。学問のあり方、神のあり方、生命の起源をどう捉えていたか、などに関する論考が12本。それぞれのテーマは異なっていても少しずつ重なりあう部分を持ち、全体を通すと、当時、ヨーロッパの哲学・神学・自然科学の分野で何が起きていたかが掴めるようになる。

ルネッサンスを経たのち、ラテン語に訳された古代ギリシャの著作に触れる機会が増え、自然科学の知識を増やしてきたヨーロッパの学者たちは、ある壁(あるいは天井)にぶち当たることになる。その壁とは、一言で言うなら神。
世界は神が作った、それゆえ人間は神を知覚することかなわず、神は至高の存在であるとされるキリスト教の教義と、実際に実験・観察で得られた(自然法則の支配する)世界のあり方の間には当然ながら齟齬が生じるわけだが、両者の辻褄をなんとか合わせようとした学者たちの奮闘ぶりがすごい。キリスト教圏ではもともと教会や修道院が高等教育を担っていたこともあり、学問と宗教は非常に密接な関係にあった。宗教上のタブーに触れないようにしながら、人間や自然の存在の根源を追求するため、理屈をこねくり回し、どうにかして神を世界の上位に置こうとする学者や知識人の涙ぐましい努力。この努力がやがて近代への扉を開き、ついに神を世界から切り離すことに成功したわけだが、そこに至る道を見つけた彼らのとまどいと苦悩(あるいは喜び)はいかばかりであっただろう。

インテレクチュアル・ヒストリーという聞きなれない言葉が登場するが、これはひとつのテクストを読み解くにあたり、歴史的・社会的背景を十分に織り込みながら考察したり、逆に、文化史や社会史を研究する際に、対象となる時代に記された個々のテキストを注意深く検証する、という手法である。本書の「はじめに」ではこんなふうに記されている。

インテレクチュアル・ヒストリーとは歴史学と哲学のあいだに存在し、歴史学者の時間や空間に対する感性と哲学者のテクストにのなかに入りこむ浸透力のふたつを同時に必要とするジャンルなのである。

例えば、クラシック音楽の発展の歴史を当時の社会の動きと重ねてたどると、ほぼ同時期のウィーンにいながらモーツァルトとベートーベンの曲風がなぜあんなに違うのか、とか、ハイドンはモーツァルトと年の離れた親友になれたのに、弟子のベートーベンとはなぜそりが合わなかったのかがよくわかったりする。決してベートベンが特殊だったから、というだけの理由ではない。これは楽曲そのものを研究するばかりではおそらく見えてこないと思うのだ。

「バイオパンク」

4140815329 バイオパンク―DIY科学者たちのDNAハック!
マーカス・ウォールセン 矢野 真千子
NHK出版 2012-02-21by G-Tools

これはなかなかに興味深い内容だった。DNAコードがコンピュータのプログラミングになぞらえることができるなんて。

この20年で急激に発達したバイオテクノロジー。しかし、その発展はコンピュータほどスムーズにゆかず、原因は遺伝子に関する情報や研究用の道具が、大学や企業の研究室に囲い込まれているためだ。と、考える在野の研究者が多数現れた。彼らはDIY精神にのっとり、身の回りにある、比較的手に入れやすい材料で安くバイオの研究ができないか、あるいは遺伝子診断のツールを作れないかと奮闘する。そうすることで、生命科学がより多くの人の手で扱えるようになり、例えば途上国でも手軽に遺伝子診断ができたり、多くの知恵が結集して生命科学の進化が加速されるのではないかと考えるからだ。

やがて彼らは集まり情報交換をするようになり、2010年、ロサンゼルスで開かれた「無法者生物学?」という名の会議で「バイオパンク宣言」をする。それは

「すべての人に研究する権利があることを主張し、すべての人に科学のためのツールを届ける、という誓いである」(P67、最後の2行より)

この主張に賛同する人たちはバイオハッカーと呼ばれるが、この場合の「ハッカー」は「ホワイトハッカー」であり、世のため人のためにバイオの技術を行使しようとする人たちである。そしてこの考えたはITの世界で言う「オープンソース」と共通する。オープンソースというのは、例えば無料OSのリナックスのように、プログラムコードをすべて公開して、だれでも手を加えられるようにし、みんなでOSを進化させようという考え方である。少し意地悪な言い方をすれば、無料で使うかわりに知恵を差し出せ、とも言える。

いやはや、DNAをめぐる研究がこんなに熱くなっているとは知らなかったし、それ以上に、彼らの、科学技術に対する考え方に感じ入った。誰もがこの世界の謎を追求する権利があるという考え方。象牙の塔の住人だけに任せておくことはできない。

しかし、DNAのからくりはコンピュータのプログラムに似ていると指摘されれば、なるほどその通りだとうなずく。ITの発達に比べてバイオ方面の進化が遅いのは、DNAのコードを読み書きする手段がまだまだ未発達で時間とお金がかかるためだ。それに、危険性(バイオテロや過失によるウイルス蔓延など)や、当局の監視の目もある。

ただし、危険性については、遺伝子組み換えの技術が未発達すぎて、とてもじやないが凶器として使えるレベルではないらしい。ぶっちゃけた話、バイオテロをするなら既存の病原菌をラボから盗み出して培養するほうが、よほど安く早くできる。

かといって、まったく野放しにしてよいわけでもない。すでに一部の農作物では遺伝子組み換えの品種が利用されていて、一部の企業に大きな利益をもたらしているし、遺伝子組み換え植物が今後どんな影響を環境に及ぼすのかは未知数だ。

それでもバイオハッカーたちは、前進をやめないだろう、というのがこの著者の見解である。そもそもバイオハックをする人たちは少しでもこの世の神秘を解き明かしたくて仕方がなく、それが世の中の役に立つなら万々歳という人たちなのだから。これは科学技術信仰などではなく、人間の本能のひとつなのだろう。

「今を生きるための『哲学的思考法』」

シンプルな字面の割に本質的なことをぐさりとついてくるところが、面白く感心した。
世界のあり方は決してひと通りではないという議論から始まり、ネットによって情報過多になった現代人の「自我」はどこにあるのか、「フクシマ」以降の世界をどう生きるか、など、今を生きる人間なら当然気になるであろうテーマが取り上げられ、今後の自分のあり方を考える参考になる。

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「中世の星の下で」

よい学術書だった。随筆、雑誌への寄稿文、講演記録などを集めた短篇集であるが、細切れ時間にちまちま読むには調度良い。
中世ドイツの人々の暮らしについて、伝承はもとより、ギルドやツンフトの成り立と存在意義、人間と動物の関係の変化、あるいは近世になって市民のあいだに流行した協会(今風に言えばサークル)活動などを取り上げつつ、中世人の心のありように迫っている。

例えば鐘の音の役目。時計が一般的になる前、時間の基準は教会の鐘の音だった。日本の鐘の音もまあそんな感じだけど、中世ドイツの場合は、鐘の音が労働時間の開始と終了を合図するほか、契約の有効な時間の合図でもある。契約は日没の鐘が鳴る前に結ばれなくてはいけなかったのだ。また鐘の音は非常事態を知らせたり、共同体のメンバーを招集するための音になったりする。
だから鐘を鳴らす権利は非常に重要な権利で、時としてそれは市民の反乱の合図になることもあった。領主に向かって「この要求を飲まなければ今から鐘を鳴らして全市民を招集する(=反乱の準備はできている)」という脅し文句がきいたのである。
そして中世の都市には鐘だけでなく、物売りや労働歌など、さまざまな音が生活の合図の音として鳴り響いており、それが交響曲の起源になったというから面白い。

人間と動物の関係においては、狼が人智を超えた自然の脅威を表すとされた一方で、イヌはその死骸に触れるとたちまちギルドの構成員から外されるという貶められぶり。家畜の守り役として人間に仕えていたにもかかわらず、だ。そして家畜の屠殺人や皮はぎ職人は賤民として扱われた。(このへんは日本と似てる) 自然に対する畏怖の念がひっくり返った形かもしれない。

特に印象的だったのは、中世のなかばまでは、人と人を結びつけていたのが贈与の関係だったということ。(なんと、「カイエ・ソバージュ」シリーズに登場した概念がここでも顔を出している!) 人と人の仲立ちをする物品はもはやただのモノではなくなる世界だ。贈り物には送り主の人格が宿り、返礼の品には自身の人格が宿ると考えられていた。そして領主のあかしとは、戦いによってより多くの財産を得、それらを家臣に分配できる能力のことだった。なんのことはない、鎌倉時代の封建制度と同じだ。
ところが貨幣経済が成立すると、人間関係も貨幣が媒介するようになる。するとモノは貨幣の量で価値を計られ、それ以上でも以下でもなくなる。言い換えればモノはモノでしかなくなるのだ。労働の報酬が貨幣で支払われるようになると、やはり労働もモノ化する。これは経営者と労働者の分化へとつながる。

見方を変えると、贈与経済は、ゲルマンやケルトなど大昔からヨーロッパ大陸北東部に住んでいた民族が持っていた価値観だ(縄文人の価値観にも近い)。それに対して貨幣経済はローマ帝国とキリスト教が持ち込んだ。もちろんローマに征服されたからといって一気に変わったわけではなく、表層的にはキリスト教徒になった彼らは、中身はゲルマン人の価値観を維持し、自然を畏れ、贈与によって築かれた人間関係の中で生きるスタイルをとる。その融合の名残が例えばクリスマス。太陽の復活を祝う冬至の祭りと、とある聖人の伝説がいっしょくたになってキリストの生誕祭が生まれた。(科学的に調べるとイエスが生まれたのは夏だったというし)。
中世の半ばを過ぎて、ゲルマン人が中身まで変わるきっかけとなったのが宗教改革だったらしい。ルターのお陰で、教会の「腐敗」は払拭されるが同時に、カトリック教会の中に巧妙に残された贈与経済までもが否定されてしまった。それが近代の始まりでもあるという。
日本で言うと、明治維新がローマ侵攻で、アメリカ占領が宗教改革にあたるのかなぁ。

「野生の科学」

「狩猟と編み籠 対称性人類学2」の続き。
三部に分かれており、Ⅰ「野を開く環」、Ⅱ「知のフォーヴ」、Ⅲ「空間の野生化」となっていて、「野生の思考」と科学をつなげてみる試みが含まれている。扱われる分野は経済学、神話、民藝運動、曼荼羅、地図学など多岐にわたる。
たとえば経済の話では、「カタクラシー」という用語が登場する。等価交換(現実に属する)と純粋贈与(無意識の世界に属する)の二重の意味を持たせた、ギリシャ語に起原を持つ造語だ。これまで経済は等価交換のみを土台にすえる市場論理で分析されてきたが、それだけでは人間の経済活動を説明しきれず、無意識の働きに関わる純粋贈与までひっくるめた理論を構築する必要があるという流れになる。

話題が多岐にわたるのは、雑誌に掲載された論文や講演を書き起こした文章をまとめたためであり、どうしてもまとまりに欠ける印象はあるが、本書で一貫して扱われているのは、つまるところ人間の無意識と現実認識がいかにしてリンクされているか、である。
無意識と呼ばれる心の領域は時間軸や因果に縛られず、生命の力がダイナミックに渦巻く領域であり、他方、現実と接する意識の表層は物事を因果律と時間の流れに沿って不可逆的に認識する。2つの領域は異質であり、連続的につながることはできないはずが、なぜか人の心のなかでは両者が共存し、連動している。
中沢氏はそのからくりを、クラインの壺、トポロジー、射影平面、神話の公式などを使って説明してゆく。いずれにしても、ねじれを含むのがポイント。次元の違う世界をつなぐにはどうしてもねじれの構造が必要になるのだ。

非常に抽象的な話であり、見えず、触れも出来ない事象が語られているにもかかわらず、なんでこんなに分かるんだろうという不思議なくらい腑に落ちて心地よかった。これはやはり無意識の構造が的確に分析されているがために、それこそ無意識が喜んで受け入れてるのだろうか。
という冗句はさておき、これまで心の働きは解析不可能、あるいは学問では触れない領域だと思い込んでいたのが、こうやって理路整然と説明されると非常に心地よい。「気のせい」とか「虫の知らせ」はそれこそ気の迷いではなく確かに根拠があって存在すると思うと、いつも心の片隅にあったもやもや感が減った気がする。

そしてファンタジー書きの人にとっては必読書になるだろうと思う。なぜならファンタジーは無意識の世界に渦巻く力を物語として現実世界に表出する手段だから。