随分と大仰なタイトルをつけてしまったが、何の話かと言うと、村上春樹『国境の南、太陽の西』の読後感。
1992年に発表されたこの作品は、もともと『ねじまき鳥クロニクル』の中のエピソードだったが、内容が複雑になりすぎるという理由でカットされた章を独立させたものだという。そのためか、メインテーマの一つに「抗いがたい暴力的な吸引力」との戦いがある。
あらすじとしては、バーの経営者として成功し理想的な家庭に恵まれた37歳の「僕」の恋愛(?)遍歴。小学生の時に出会って親しくなった島本さん、高校生のときのガールフレンドのイズミ、いわゆるセフレ関係を結んだイズミの従姉妹、そして結婚相手として選んだ有紀子。作品の前半では彼女らとどんなふうに出会い、どんな気持ちを抱き、どんな別れをたどったか、という経緯が自叙伝のように語られる。恋愛というより性愛というほうがより実体に近い気がするが、それは「僕」が彼女たちに求めたのが生命の根源にかかわる何かだったからだろう。
彼女たちに対する愛着の度合いを、主人公は「吸引力」という言葉でしばしば表す。一番強力な吸引力を持つのが島本さん。次に有紀子。そしてイズミの従姉妹であり、実はイズミはとてもいい子であったものの「僕」の欠落を埋められるような吸引力は持っていないと明記されている。そして後に最も大きく損なわれるのが彼女だ。
物語は順風満帆だった主人公の人生に、島本さんがひょっこり姿を現すことで急展開を迎える。大人になった彼女は美しく謎めいていて、とてつもない事情を抱えているらしく、「僕」は強烈に惹きつけられ、たちまち家庭(成功した社会生活)をとるか魂の救済(何もかも捨てて島本さんと駆け落ちする)を取るかの間で大きく揺れ動くようになる。どちらを取っても失うものは大きい。
色々あって、「僕」は結果的に島本さんのいない世界で生きてゆくことになる。体良く言えば、島本さんは(おそらくは)彼のためを思って身を引いた。しかし彼の世界は色を失い、何もかもが無意味になり、魂の欠落は永遠に埋められそうにない。だが、彼には大事に育ててきた店があり、生活習慣があり、何より家族がある。変わり果てたイズミの姿を目にし、妻に諭され、彼はようやく気づくのだ。失われてしまったのは自分だけではないし、欠落とともに生きる人はたくさんいる。むしろ欠落の自覚こそが新しい生き方のスタートなのだと。
この作品の舞台となっているのは1988年前後。ちょうどバブル真っ盛りの時期で、街の描写や建設業にかかわる義父とのやりとりにバブルの様子が色濃く反映されている。はりぼてのような上辺の豪華さ、マネーゲーム、夢の国、幻想の提供……。バブルが弾ける前兆まで読み取れる。さらに一歩踏み込んで「僕」が島本さんや妻の中に見出した「吸引力」ですらバブル時代特有の幻想だったのでは?という気がする。
この作品、出版された当初はさんざんな評判だった記憶がある。何より平然と浮気をしているように見える「僕」に対する非難轟々。そして彼を取り巻く女性たちに対しては「男性にとって都合の良い女性ばかり」と言われたものだ。実際、男性視点なのは否めないし、女性は「僕」を導く教師のような役目を負わされている。しかしその後に書かれた『1Q84』では同じような設定(小学生の時に運命の出会いをした男女が主人公)を使いながら、女性の青豆の視点で描かれている。青豆は非常にタフで聡明な女性として描かれ、「こんな女性がリアルにいるわけがない」と言われてもおかしくないのだが、物語そのものが不思議な出来事に満ちているためか、あまりそのような批判は目に入らない。ちなみにこちらのカップルは世界を乗り換えることで見事結ばれる。それは取りも直さず村上ワールドの進化の結果ではないかと思っている。
〈蛇足かもしれない追記〉
島本さんについて、内容を振り返れば振り返るほど悪女というか、ひどい女性だなあと思う。最初は出来心からとはいえ、思い出の中の大事な人の世界に現れて、しかもその人生をぶち壊しにかかるんだもの。島本さんは存在するだけで関わる人達の人生を台無しにしてしまうタイプであるようだ。もちろんそれは主人公の「僕」についても言えるのだが、どうやら桁が違う破壊力を持っているらしい。もちろん彼女はそのことに自覚的で、だからこそ最後の最後で「僕」のもとから消えるという選択をしたのだろう。このタイプの女性はファム・ファタールとして知られ、19世紀末の芸術作品にしばしば登場する。