2020年の読書(コミックver)

もう10年以上前から、ブクログで読んだ本の記録をしているが、昨年は年間登録数が初めて100冊を超えた。ガツガツ読書に勤しんだかといえば、そんな余裕もなく、ただ現実逃避をかねてコミックを読みまくったせいだ。ただしマイルールを定めて、基本的には毎週2冊ずつ読み進め、コンプリートするのは「これは!」と気に入った作品のみにして、できるだけ知らない作品に幅広く手を付けることにした。

その結果、一年間に少しでも目を通した作品数は19作品。うち、コンプリートしたものが3作品。1冊のみの読み切りが1作品。リアルタイムで追い続けている作品が5作品。残りは途中で満足して、あるいは面白味を感じられずに切り上げた作品。まずは以下に作品名をあげておく(ほぼ時系列)。

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迫りくる虚無との戦い方

随分と大仰なタイトルをつけてしまったが、何の話かと言うと、村上春樹『国境の南、太陽の西』の読後感。

1992年に発表されたこの作品は、もともと『ねじまき鳥クロニクル』の中のエピソードだったが、内容が複雑になりすぎるという理由でカットされた章を独立させたものだという。そのためか、メインテーマの一つに「抗いがたい暴力的な吸引力」との戦いがある。

あらすじとしては、バーの経営者として成功し理想的な家庭に恵まれた37歳の「僕」の恋愛(?)遍歴。小学生の時に出会って親しくなった島本さん、高校生のときのガールフレンドのイズミ、いわゆるセフレ関係を結んだイズミの従姉妹、そして結婚相手として選んだ有紀子。作品の前半では彼女らとどんなふうに出会い、どんな気持ちを抱き、どんな別れをたどったか、という経緯が自叙伝のように語られる。恋愛というより性愛というほうがより実体に近い気がするが、それは「僕」が彼女たちに求めたのが生命の根源にかかわる何かだったからだろう。

彼女たちに対する愛着の度合いを、主人公は「吸引力」という言葉でしばしば表す。一番強力な吸引力を持つのが島本さん。次に有紀子。そしてイズミの従姉妹であり、実はイズミはとてもいい子であったものの「僕」の欠落を埋められるような吸引力は持っていないと明記されている。そして後に最も大きく損なわれるのが彼女だ。

物語は順風満帆だった主人公の人生に、島本さんがひょっこり姿を現すことで急展開を迎える。大人になった彼女は美しく謎めいていて、とてつもない事情を抱えているらしく、「僕」は強烈に惹きつけられ、たちまち家庭(成功した社会生活)をとるか魂の救済(何もかも捨てて島本さんと駆け落ちする)を取るかの間で大きく揺れ動くようになる。どちらを取っても失うものは大きい。

色々あって、「僕」は結果的に島本さんのいない世界で生きてゆくことになる。体良く言えば、島本さんは(おそらくは)彼のためを思って身を引いた。しかし彼の世界は色を失い、何もかもが無意味になり、魂の欠落は永遠に埋められそうにない。だが、彼には大事に育ててきた店があり、生活習慣があり、何より家族がある。変わり果てたイズミの姿を目にし、妻に諭され、彼はようやく気づくのだ。失われてしまったのは自分だけではないし、欠落とともに生きる人はたくさんいる。むしろ欠落の自覚こそが新しい生き方のスタートなのだと。

この作品の舞台となっているのは1988年前後。ちょうどバブル真っ盛りの時期で、街の描写や建設業にかかわる義父とのやりとりにバブルの様子が色濃く反映されている。はりぼてのような上辺の豪華さ、マネーゲーム、夢の国、幻想の提供……。バブルが弾ける前兆まで読み取れる。さらに一歩踏み込んで「僕」が島本さんや妻の中に見出した「吸引力」ですらバブル時代特有の幻想だったのでは?という気がする。

この作品、出版された当初はさんざんな評判だった記憶がある。何より平然と浮気をしているように見える「僕」に対する非難轟々。そして彼を取り巻く女性たちに対しては「男性にとって都合の良い女性ばかり」と言われたものだ。実際、男性視点なのは否めないし、女性は「僕」を導く教師のような役目を負わされている。しかしその後に書かれた『1Q84』では同じような設定(小学生の時に運命の出会いをした男女が主人公)を使いながら、女性の青豆の視点で描かれている。青豆は非常にタフで聡明な女性として描かれ、「こんな女性がリアルにいるわけがない」と言われてもおかしくないのだが、物語そのものが不思議な出来事に満ちているためか、あまりそのような批判は目に入らない。ちなみにこちらのカップルは世界を乗り換えることで見事結ばれる。それは取りも直さず村上ワールドの進化の結果ではないかと思っている。

〈蛇足かもしれない追記〉
島本さんについて、内容を振り返れば振り返るほど悪女というか、ひどい女性だなあと思う。最初は出来心からとはいえ、思い出の中の大事な人の世界に現れて、しかもその人生をぶち壊しにかかるんだもの。島本さんは存在するだけで関わる人達の人生を台無しにしてしまうタイプであるようだ。もちろんそれは主人公の「僕」についても言えるのだが、どうやら桁が違う破壊力を持っているらしい。もちろん彼女はそのことに自覚的で、だからこそ最後の最後で「僕」のもとから消えるという選択をしたのだろう。このタイプの女性はファム・ファタールとして知られ、19世紀末の芸術作品にしばしば登場する。

自分サイズのアメリカ文学指南書

アメリカ文学といえば、もう何十年も前から有名どころが紹介されてきて(中高年を中心に)ファンも多く、何を今さらという感じではあるが、この本はアメリカ文学愛が溢れていて、心に響く内容だった。前半で比較的現代に近い作家やミュージシャンを取り上げ(ノーベル文学賞を受賞したボブ・デュランも入ってます)、後半では古典となっているメルヴィルやホーソーンを取り上げ、現代から読み直した解釈をしている。

『生きづらいこの世界で、アメリカ文学を読もう』堀内 正規 著

タイトルの名前そのままに、社会からこぼれ落ちそうな人の心や、はみ出さずにはいられない生き様にスポットを当て、そういう人生もありなのだと肯定するような作品の選択と読みがなされている。ままならない人の生を描き出す文学作品は世界各地にあるが、ここで紹介されている作品群はいずれも「アメリカでしか生まれなかった」という。資本主義経済が高度に発達し、自由なようでいて実は差別が根強く残るアメリカの閉塞感と、現在の日本、特に「ロスト・ジェネレーション」が抱える閉塞感は通じるように思うのだ。

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「世界蛇」に翼がついたらドラゴンだ

何年も前から気になっていたコミック「ヨルムンガンド」全11巻を読み終えた。若き武器商人ココ・ヘクマティアルと彼女に拾われた少年兵ヨナが主人公。彼らの脇を固めるのはトップクラスの傭兵10人。ココが胸に秘めた望みは、武器売買で得た巨額の資金を使って戦争のない世界を作ること。果たして彼女は自分の望む世界を作れるのだろうか。



物語はいくつものエピソードを積み重ねて進んでゆく。同業者、殺し屋、国家の秘密組織、CIA、などなど裏街道をゆく人物が次々と現れては消えてゆく。争いの世界ではとにかく武力が物を言う。武器の性能とそれを扱う人間の能力をかけ合わせた力だ。では武力があればいいかというと、いったんその世界に足を突っ込んだ人間はカタギには戻れず、自由があるようでない。少年兵ヨナがそれを象徴している。ココを守る仲間たちの過去も明かされてゆく。ほぼ全員のエピソードが語られたあとで、ココの最終計画が発動する。

(注:ここから先、ネタバレあります)

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天使の化石

今回紹介する本は西崎憲『未知の鳥類がやってくるまで』
あり得たかもしれないもう一つの日常の不思議な物語集。

ここで本の紹介をするのも久しぶりなら、物語らしい物語を読んだのも随分久しぶりな気がする。もちろん、先日読み終えた『1Q84』も立派な物語だったけれど、あまりにも馴染みすぎた世界だったので、深くは入り込めても新鮮さはないが、本作はシンプルな言葉でどこか懐かしく見たことのない景色を連れてきてくれた。

10編の短編が収められており、タイトルは以下の通り。

  • 行列
  • おまえ知ってるか、東京の紀伊国屋を大きい順に結ぶと北斗七星ができるって
  • 未知の鳥類がやってくるまで
  • 東京の鈴木
  • ことわざ戦争
  • 廃園の昼餐
  • スターマン
  • 開閉式
  • 一生に二度

やはり表題作となっている『未知の鳥類が~』が一番インパクトが強く読後感は最高。常人なら『校正係の帰還』としそうなタイトル(これでも充分にカッコいいと思う)を、あえて本文中の言葉から遠くしているのが面白い。

『おまえ知ってるか~』という自由律の短歌になりそうなタイトルを持つ短編は、近未来のディストビアふうな街を舞台にしているが、主人公の二人の男の子が頼もしいし、ラストの締め方が最高。

『東京の鈴木』の不気味さは攻殻機動隊SACの敵役を思い起こさせて良い。

前半は普通にオチのある物語の体裁を取っているが、だんだん抽象度が増し『開閉式』や『一生に二度』はどこに連れて行かれたのかさっぱりわからないほど凄いことになっている。でも話の筋(論理的なつながり)とは違うレイヤー、深い層で物語同士がリンクしあっているのがなんとなくわかる。

作者の西崎氏は、フラワーしげるという名前で歌人としても活動されている。離れた言葉や文章同士の響き合いが計算されていることに気づく時、目の覚めるような感動を覚えるのだが、作り手としては当然の所作なのだろう。