「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」

仕事に追われる日が続くうち、気がつくと休日も仕事のことを考えるようになっていた。少しずつ脳内マップは仕事関係の領域が中央にせり出し、前々から大事にしていた趣味の領域――たとえば音楽とかアート関係のこととか、好きなジャンルの本のこととかが僻地に追いやられつつある。このままでは近いうちに別人になってしまう気がして、休みの日になると、できるだけ美術館に足を運んでその記録を書きとめておくようにしている。人のために書くというよりは、少し先の自分が読み返して、そんなこともあったなあと思い出す手がかりにするためだ。

そんな折に、某ブログサービスで読書感想企画を見つけ、課題図書を見ていくと、おや?と目に留まる本があった。それが『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』だ。以前に紹介文を見たことがあり、「インクルーシブ」が流行りだした今の時代に良さげな本だけどいつか機会があれば読もう、くらいのつもりでスルーしていたところ、「こんばんは。先日スルーされた”機会”です」と心のインターホンをピンポンされた格好だ。

これはどんな本? まずは見た目から

本のサイズは四六判。全336Pで、厚みは約3センチ。
表紙は、白を基調とした背景の真ん中に黒い長方形があって、長方形を囲むようにタイトルが赤い文字で書かれている。長方形の中には3人の人物の後ろ姿。杖を持った男性が真ん中に立ち、両脇に長髪の女性とショートカットの女性がひとりずつ。男性から吹き出しが出ていて「なにが見えるか教えて下さい」と言っている。タイトルから想像すると、真ん中に立つ白鳥さんと女性2人がいっしょに美術鑑賞をしているらしい。とてもわかり易い表紙だ。
帯がついていて「岸田奈美さん推薦!!」とある。有名人の推薦ありだ。ということは外れなのか? しかしもう買ってしまったのだし、あとは腹をくくって読むしかない。

どんな人が登場するの?

まずはなにを置いても白鳥健二さん。生まれたときからほぼ視力がなく、盲学校を卒業してからはマッサージ業を営みながら美術鑑賞の日々。はじめはソロ活動だったのが、次第に色々な人達をまきこんでゆき、美術鑑賞のワークショップにも関わるようになる。でもそれだけでは終わらない。
次に、著者であり、インタビュアーでもあり、白鳥さんの友人である川内有緒さん。文中では「有緒」さん表記。彼女の視点で話が進む。
3人目は、白鳥さんを有緒さんに紹介した「マイティ」こと佐藤麻衣子さん。有緒さんの長年の友で、高校生時代から美術鑑賞を始め、現在は水戸芸術館のスタッフ。
他にも美術館の関係者や、3人の友人・家族など多くの人達が入れ代わり立ち代わり登場する。

対話型アート鑑賞って?

最初は、白鳥さんと有緒さんが初めて一緒に美術鑑賞をする話から。目の見えない人に言葉で説明をしながら作品を見てゆくと、思いがけない発見がある、見ているつもりで見えていなかったものがたくさんあった、さらには言葉にすることで第三者と感想をシェアしやすくなる、などが綴られてゆく。
もう何年も前から対話型の鑑賞が注目されているから、これらの感想自体は目新しいものではない。
むしろ、生まれてこの方ほとんど目が見えず「視覚記憶」がないという白鳥さんがどうやって世界を認識しているのか、という話がとても興味深かった。晴眼者(目の見える人)が想像するよりは不自由ではなく、同時に本人の自覚がないだけで実は結構な不自由さを抱えているのでは? と思うことの両方ある。もっとも晴眼者だって紫外線までは見えないのだから、紫外線を感知できる生き物からすれば「人間は不自由だなあ」と思われているのかもしれない。

美術館てどんなところ?

章が進むにつれて、白鳥さんと美術館のかかわりについて語られるようになる。白鳥さんだけではない。著者の有緒さん自身の体験や共通の友人マイティの経歴も紹介され、三人がそれぞれ美術館と縁が深いことが明かされる。美術館というと、アートを鑑賞する場所、というのが第一の意味だけども、実はそれだけではない。浮世からの避難所であり別世界であり、知らない世界の存在を教えてくれる場所だったというのがマイティの話から伺える。そう感じるのは彼女ひとりではない。あの「ライ麦畑でつかまえて」のさまよえる主人公、ホールデン・コールフィールドだって、博物館で心を休めたのだ。
一人で行っても楽しい美術館ではあるが、気のおけない友人と見に行ってお互いの感想を気楽に言い合えたらなお楽しい。有緒さんは鑑賞の時間と同じくらいアフタートークの時間(しばしば飲みが入る)が好きだと語っているが、こうなるとすでに「むしろアート鑑賞って口実? 人と人が楽しく時間を共有するための?」と思えてくる。もちろん、それでいいと思うのだけど。

こうして事あるごとに美術鑑賞を重ねる白鳥御一行さま。そこへコロナ禍がやってきて、美術鑑賞の旅も自粛せざるを得なくなった。ここで興味深いことが起きる。世の流れに乗ってバーチャル鑑賞会をしようと有緒さんが提案するも、白鳥さんはあっさりスルー。このご時世、ネット経由で自由に館内を見られる美術館は国内外を問わずいくつもあるし、ズームを使えば(もちろん白鳥さんはパソコンを使いこなせる)、オルセー美術館の中を見ながらお互い語り合うことも可能なのに、だ。本当にどうしてでしょうねぇ……(答えは本書の中に)

時に、アートは人間同士が化学反応を起こすための装置なのかも

この体験がいちばんわかりやすく描かれているのが「第11章 ただ夢を見るために」だ。これは、マリーナ・アブラモビッチのインスタレーション施設「夢の家」へいつものメンバー+マイティの夫氏で出かけ、実際に一泊した時のエピソードだ。このインスタレーションは「夢を見」、記録することがメインの要素だから、夢を見なきゃはじまらないのだが、果たして有緒さんは指定された方法通りに眠れるのか、そして白鳥さんは夢をどんなふうに「見る」のだろうか……。
白鳥御一行さまの笑いが止まらないエピソードと、作者アブラモビッチの身体を張った壮絶なインスタレーションの紹介とがミルフィーユのように重ねられ、非常に味わい深い章である。

また全12章中、いちばん熱量を放っていたのが「第7章 荒野をゆく人々」。福島県の猪苗代湖の近くに立つ「はじまりの美術館」を訪れた時の体験記だ。「はじまりの美術館」の特徴は、健常者といわゆる障害者の作品を同列に扱い展示するところにある。障害者の作品と聞くとつい「アール・ブリュット」という言葉を思い出してしまうのだが、そんな用語が意味をなさないレベルの作品が紹介されていた。パワフルな作品の数々に触れると「そもそも”障害”てなんだっけ?」と考えずにはいられない。

「表現の力」に障害のあるなしは関係ないのです。ここでは、障害の有無に関係なく一緒に作品を展示し、鑑賞してもらうことでむしろ「障害とはなにか」を考えるひとつのきっかけになるのかなと思うようになりました。

「はじまりの美術館」館長 岡部氏の言葉より

ここで言う「表現の力」とは生きようとする力にも等しいという。だから障害のある無しにかかわらず、すべての人が持つ力なのだと。障害のある人々を巻き込んで制作された作品は、強いメッセージを持っている。色々な立場や状況の人たちを排除するのではなく協力し合うと、決して一人(あるいは単一の集団)ではなし得ないことができる、というシンプルなメッセージだ。有緒さんはそれを、荒野を切り開くことにたとえている。既存の社会通念により「そこに踏み込んだらまずい」とされているグレーゾーン(=荒野)にあえて立ち入りセーフゾーンにしてゆくこと、その行為がアートになる。
時おり「アートなら何をしても許される」という揶揄の言葉を目にするが、どこまでが許されるのかを測りつつ、ギリギリを攻める表現だからアートになるのだろう。例えば《未確認迷惑物体》は障害を持つ人が人らしく存在する自由と社会規範のせめぎあいをよく表していて、社会的にも本人の生存理由的にもギリギリのラインが透けて見える。ペーソスあふれる切ない作品だ。

人はいったい何を求めて生きている?

アート鑑賞の話から始まって最後には人生論になっているのもこの本の面白いところ。
白鳥さんの手はじっとしていることが苦手のようで、テーブルにつくと必ずテーブルの存在を確認するかのようにトントンと指で叩き出すという。時々自分の存在感を見失ってしまうという白鳥さん。おそらくは視覚を持たないがために、常に何かに触れているとか人の声を聞いているとかしないと自己の存在が意識できなるなるのだろう……と思いつつ読み進めていったら、なんと目の見える有緒さんも自分の存在が透明になってしまう危機感を体験しているというではないか。
そんな時、助けとなるのが他者の存在だ。自分と違う視点を持ち、背景を持つ人たちがいるから、自分の輪郭がわかる。有緒さんにとって、白鳥さんとアートを見に行く体験はその最たるものだし、白鳥さんにとっても、自分と世界のつながりを確認できるから美術鑑賞にのめり込むのだろう。
わたしがいてわたしと違うあなたがいて、どちらかがどちらかを圧倒するのではなく、両方を包む世界がある。美術館の中はそういう理想の世界がたち現れる可能性のある場所だ。

と紹介すると、まるで美術館がコミュ障の救済の地のように感じられるかもしれないが、実はこの本に登場するメインの3人は素晴らしくコミュ力が高い。経歴紹介を読めばわかるが、特に有緒さんは世界をまたにかけると言ってもいいレベルの学歴と職歴を持っている。もともと力のある人たちだから、ぶっちゃけた話、どこへ行っても素敵なコミュニティを作れる。

では凡人はどうすればいい?

やはり美術館に足を運んでみたらいいと思う。そして好きと思える作品に出会えたら、その作品と一対一で向き合い、少しずつ自分の世界が立ち上がって来るのを待つ。それができれば上々で、人と共有するのは後で考えればよい。ちなみにソースは自分。

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