閉じて開いてまた閉じて――「すずめの戸締まり」

先日、地上派初登場という「すずめの戸締まり」を見て、やはりこれは公開時に映画館で見ておくべき作品だったと感じたので、何がどうよかったかという感想を書き残しておきたい。(2022年の封切り当時、かなりヒットしていたし、今回の地上波放映でも結構な人が見ていたと思うので、ネタバレ全開で語ります。)

まず、ざっくりまとめるとどんな話だったか。放送中にこそっとTwitter(X)を見ていたら、村上春樹ファンの方のつぶやきで、ちょうどよい喩えがあったので拝借する。

「海辺のカフカ」+「かえるくん、東京を救う」+「スプートニクの恋人」

「かえるくん~」はとてもわかる。東京の地下に潜むという大みみずをかえるくんが退治に行くという話で、主人公のところにかえるくんが力を貸してほしいとやってくるのだ。大みみずが暴れると大地震がおきるという設定までそっくり。「スプートニクの恋人」もわかる。異世界に行ってしまった恋人が奇妙な体験をしながらも無事に戻ってくる話。でも、その線でいったら「1Q84」のほうが近いのかもしれない。そして海辺のカフカ。正直、これはあまりピンとこなかったけれども、ツイ主さんは、失ったものを取り戻す過程が似ているという意味で挙げていた。たしかに、家を飛び出した若者が各地を転々としながら異世界とコンタクトして、自分から失われてしまった何かを取り戻す旅、と捉えると確かに共通するものがある。あと、もう一つあげるなら「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に登場する「やみくろ」の世界だろうか。大都市の地下に、邪悪さを持つ大きな力が潜んでいるという設定は、今回の「すずめの戸締まり」の設定と近いものがある。

さて、それでは「すずめの戸締まり」の世界の枠組みがどうなっているか思い返してみたい。まず、ふだん人々が生活している世界が現世。そして現世と重なるように「常世」という異界が存在する。常世はあの世とほぼ同義であるものの、時間の流れと空間のあり方が現世と違い、さらには神という名の巨大な力が渦巻くところ。巨大な力が「後ろ戸」という名の扉を通じて現世に干渉するとき、その力は巨大ミミズの姿をとり、それが現世の大地に倒れ込むと地震が起こるという。すずめが閉めることになる「後ろ戸」は、このミミズの出口となる扉であり、主に廃墟に現れることになっている。

ファンタジー好きにとっては、「異界へ通じる扉が廃墟に現れる」という設定だけでご飯3杯はいけそうだ。廃墟というのは独特の引力を持っている。かつてそこに人がいて暮らしていたり賑わったりしていたけれど今はもうない、という有と無の同居がたまらなく魅力的に感じる。また、常世の設定が日本的で納得感がある。常世は死者の世界であると同時に神の世界でもあること。神は「善なる存在」ではなくエネルギーの塊を指し気まぐれな存在であること。神とは地球の動きや自然の力のことを指すと考えてもよいだろう。実際、新海監督のこれまでの作品「天気の子」や「君の名は」でも、人間のコントロールがきかない大自然の力を扱っているし、その力が普通の人々の暮らしに干渉してくる話だ。

この設定の中ですずめを始めとする何人かの人生が錯綜する。先祖代々の「閉じ師」である草太、はからずも「後ろ戸」を閉める旅に出てしまったすずめを温かく手助けする人々、すずめの保護者で心配性な叔母の環。草太の友人や祖父、人ならぬ存在だけども重要な役を演ずるネコのダイジン。この作品の8割はロードムービー的な要素でできており、人間味あふれる脇役の人々や土地の魅力はとても大事な要素。面白いのが、ずっと宮崎で暮らしている環は宮崎の方言でしゃべり、愛媛で出会う少女はちゃんと伊予弁でしゃべる。代々その土地で受け継がれている言葉や景色や空気が大事に扱われていて、その上で廃墟の設定がなされているのが良い。恐らくこの出会いがすずめの中で過去を取り戻すトリガーになっている。

物語の推進力となる恋愛要素は相変わらず健在で、描き方は「君の名は」や「天気の子」よりもさらにわかりやすくなっている。町に現れた閉じ師の青年、草太と、彼を手伝うことになった女子高校生のすずめ。共通の目的があるし、幾多のピンチをともに乗り越えることになるから恋に落ちるのは当然の展開。さらにこの二人が引き離されるピンチもちゃんと用意されている。そして最後は爽やかなハッピーエンドなので、見ていて大変気持ちが良い。草太が呪いを受けて子供用の椅子になってしまうくだりは、結構コミカルなのだが、あまりにありきたりの恋愛路線を避けるためかもしれない。

そして最後に、いちばん重要な要素を挙げる。それはこの作品が東日本大震災を扱っていることだ。「震災をアニメのネタとして消費してよいのか」という声は当然ある。でもきちんと見れば、決して軽々しく扱っているわけではないと感じる。宮崎県で叔母といっしょに暮らすすずめは、2011年3月11日に東北地方一帯を襲った地震と津波で母を失った。母を探して彷徨ううちに、いつしか常世に迷い込む。そのことが、草太といっしょに後ろ戸を閉めるそもそものきっかけとなるのであり、彼女の旅の最終目的地は流されてしまった実家のある場所となる。ここに来て、これまで巡ってきた「廃墟」が重みを増す。かつて人々の暮らしがあったのに何らかの理由で失われてしまった場所。すずめが生まれ育った場所は、物理的には完全に失われてしまった。しかし、すずめはそこで自分の過去と正面から向き合い、幼かったときの自分を力づけることになるのだ。「未来なんてこわくない」「あなたは光の中で大人になっていく」と。この作品の中では、自分を救うことと世界を救うことが同じベクトルを向いている。この点は「天気の子」と真逆で面白いし、視聴者としても安心して物語に身を委ねることができる。

個人的には、ジブリアニメの次を担うのは新海監督じゃないのかなと思っている。路線は違ってもクオリティ的に匹敵するという意味で。

まさに総決算だよね――宮崎御大の「君たちはどう生きるか」

アカデミー賞を獲ったと聞き、やはりこれは履修しておかねばと、ジブリの「君たちはどう生きるか」を映画館で見てきた。引退サギですっかり有名になってしまった宮崎駿監督の最新作。最初に感想をまとめるなら……

普通のファンタジーアニメとして見るならば合格点。特に描写力は相変わらず素晴らしく、台詞がなくても話の舞台や状況、登場人物の心境がしっかり読み取れる。この点はやはりアカデミー賞にふさわしいと思う。けれども宮崎監督の作品として見ると、さすがに年齢的な限界を感じさせ、正直なところ、これ以上はもう作らないほうがいいよ、と感じるのだ。(ちなみに自分的にエンタメとして最高峰だと思うのはダントツにラピュタで、内面的な深みで最高だと思うのが「風立ちぬ」。)

なぜそのように感じたかというと、ファンタジー世界のつくり方が、これまで監督が読み込んで血肉としてきたであろう幾多の児童向け小説のツギハギ感が強くて、消化いや昇華されていない印象が否めなかったことにある。ああこれは体力が続かなくなったのかなと訝しむほどに。ただ、宮崎御大のことなので、意図的にそうしている可能性もある。

同名の原作小説はだいぶ前に読了して、なかなか良い本だったと記憶している。主人公のコペルくんが、まだ若い叔父と交換日記をしながら、日常で出会う不条理にどう対応していくのかを考えていく物語だ。書かれた時代が戦前の話なので、今と社会情勢はいささか違うけれども、成長物語としての本質は現代でも十分通用する。

この原作が宮崎版「君たちは~」とどうリンクしているか、だけども、当然(!)原作をそのままアニメ化したりはしてない。時代背景は戦時中なので原作と近いが、これは宮崎監督自身の幼少時代とリンクしていると考えたほうが良さそうだ。登場人物もまったく被らない。ではどこでつながるかというと、物語の中盤シーンで主人公少年が吉野源三郎版の「君たち~」を母からの贈り物として読み、涙するところだ。コペルくんに共感したであろう主人公少年(眞人)が自分で自分の課題へと立ち向かう、もう一つの「君たちはどう生きるか」だといえる。

ここからネタバレ大会がはじまります

クララとお日さま

初のカズオ・イシグロ作品読了。
人工知能を搭載した子ども用ロボット、AF(アーティフィシャル・フレンド)が販売されている世界が舞台。主人公はクララという高性能AF。彼女がパートナーとなる少女と出会い、購入され、彼女の家族や友人と触れ合いながら、職務に忠実に人間観察を続け、祈り、人に寄り添うAFとしての役目を全うしていく話。(以下、ネタバレ部分を含みます)

クララとお日さま
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柔らかな語り口

クララは少しだけ旧型のAI搭載ロボット。動力は太陽光。機能的には最新版に劣るが、秀でた観察眼と思考力、好奇心を持つ最高級のAF(人工親友)だ。が、あくまでも子供の見守り用マシンなので、知識が限定的で、物理法則や社会構成や歴史に関する情報がインストールされていない。そんな彼女が語り手になっているので、物語内では社会構成がぼんやりとしか分からない一方で、逆に知識のなさと優れた観察・推理がもたらす奇妙なアンバランスがクララ独自の「お日さま」信仰を生み出し、興味深い。

この物語世界でわかることといえば、子どもたちは「(能力)向上措置」という名の遺伝子編集を受けることができ、受けると大学など上位の学校に入れる(つまり上の階級に行ける)。ただ、この措置には健康上のリスクがあり、体質に合わないと命を落とすこともあるらしい。だとしても措置を受けた子とそうでない子の間には決定的な社会格差が生まれるので、親はできるだけ受けさせたい。また、大人の社会でも色々あるようで、優れた技術者が突然職を追われたり、様々な理由で社会から弾かれた人々が特殊な「コミュニティ」を作っていたりしているらしい。他にクララの語りからわかるのは都会と田舎があり、田舎では羊や雄牛が放牧されていること、人々は移動に(恐らくガソリンエンジンの)自動車を使っていること、ぐらいだろうか。

AI性善説と人間性

興味無いのは、AIの商業利用が当たり前の世界でも、人と人の関係性は濃密さを保ったままで描かれているところ。SF的な題材を利用しつつ、この小説で真に描かれているのは人間の挙動、特に人の心の機微だ。感情を持たないAIの視点を通すことで、人間の心の不思議さが浮かび上がる仕掛けになっている。それだけではなく、AIのクララにさえ心や信仰心に近いものが芽生えるさまも描かれている。しかもAIのそれは恐ろしく純粋な形で、まるで日本の初期のロボットアニメを見ているようだった。

でも、この小説は主人公のAIを善きものとして描くだけでは終わらない。AIの社会的活用という題材なら、さまざまな切り口が考えられる。例えば、よくあるのがAIを搭載したロボットが人の仕事を奪ったり、逆に人間にやらせるには危険で難しい仕事を請け負わせるりして、人間とAIの対立が起き、共存の道を探るような話。この作品でも、もちろんクララに対する周囲の人間の視線は厳しいものがある。要は家電と同じ認識なのだ。実際に売られているのもお洒落雑貨を扱う店だし、最後に行き着く場所も粗大ゴミ置き場。だからといってクララはじめ、AIたちは人間に対して反逆を起こすことなど思いつかない。作者の狙いは違うところにあって、それは「わたしを離さないで」の世界にも似て、代替品としてのAIなのだ。亡くなってしまった子供の完全な身代わりとなれるか。無理ならなぜ? 人とAIを隔てるものは何? と、そういう問題を扱いたかったのが見て取れる。

献身という美学

ただし、そのテーマはあまり深く突っ込まれず、代わりに前面に出てくるのは、クララの祈りだ。AIが祈れるのか、というのも興味深い問いではある。彼女は自分が「お日さま」の力で動いていることをよく知っており、また、ショーウィンドウに飾られていたころに実際に目にした出来事から、お日さまが特別な力を持っていると信じるに至る。たしかに太陽はエネルギーを地球に降り注いでいるし、地域や時代によっては太陽信仰が存在しているのも事実なのだが、そういった知識なしでたどり着くのが面白く、さらにクララは太陽に特別な人格を認め、自分の願いを届けることが可能だと信じているのだ。神の概念なんてどこで教わった?という感じなのだ。

クララは「ご主人さま」こと自分が仕える少女の役に立つことを至上命題としている。このことはAFの役目を果たす上で最も重要なことだから、そのようなプログラムがインストールされていることに何も不思議はない。だから少女の生命を救うためには何でもやる、という論理はわかる。そこで「お日さま」が起こした(と推測される)奇跡を彼女にも、というのもまあわかる。奇跡を呼ぶ方法として、特定の場所と時間に太陽に語りかける行為を選び取るところで「へぇ…」と感じるのだ。この飛躍はまるで人間ではないか。そして、彼女は自分の身を危険にさらしてまでご主人さまの生命と幸福を実現し、最後は廃材置き場で静かに自身の終わりを待つ。自分を含め、大抵の読者はこの辺りで参ってしまうのではないか。この作家はどこまでも執事萌なのだと思う。

「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」

仕事に追われる日が続くうち、気がつくと休日も仕事のことを考えるようになっていた。少しずつ脳内マップは仕事関係の領域が中央にせり出し、前々から大事にしていた趣味の領域――たとえば音楽とかアート関係のこととか、好きなジャンルの本のこととかが僻地に追いやられつつある。このままでは近いうちに別人になってしまう気がして、休みの日になると、できるだけ美術館に足を運んでその記録を書きとめておくようにしている。人のために書くというよりは、少し先の自分が読み返して、そんなこともあったなあと思い出す手がかりにするためだ。

そんな折に、某ブログサービスで読書感想企画を見つけ、課題図書を見ていくと、おや?と目に留まる本があった。それが『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』だ。以前に紹介文を見たことがあり、「インクルーシブ」が流行りだした今の時代に良さげな本だけどいつか機会があれば読もう、くらいのつもりでスルーしていたところ、「こんばんは。先日スルーされた”機会”です」と心のインターホンをピンポンされた格好だ。

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2020年の読書(コミックver)

もう10年以上前から、ブクログで読んだ本の記録をしているが、昨年は年間登録数が初めて100冊を超えた。ガツガツ読書に勤しんだかといえば、そんな余裕もなく、ただ現実逃避をかねてコミックを読みまくったせいだ。ただしマイルールを定めて、基本的には毎週2冊ずつ読み進め、コンプリートするのは「これは!」と気に入った作品のみにして、できるだけ知らない作品に幅広く手を付けることにした。

その結果、一年間に少しでも目を通した作品数は19作品。うち、コンプリートしたものが3作品。1冊のみの読み切りが1作品。リアルタイムで追い続けている作品が5作品。残りは途中で満足して、あるいは面白味を感じられずに切り上げた作品。まずは以下に作品名をあげておく(ほぼ時系列)。

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